新選組の足跡を辿る旅は、都心を離れて武蔵野へ。
かつては農村部だった江戸の西は、新選組のルーツの場所である。
天領の農民として誇りを持っていた新選組のメンバーたちは
やがて幕臣となり、徳川幕府とともに歴史の中に消えていく。
ジムニー探検隊は三鷹市と調布市の境に走る。
写真をクリックすると拡大&情報が見られます
千駄ヶ谷を離れ、ジムニーは一路R20を西に向かう。東京オリンピックのマラソンの折り返し地点、味の素スタジアムから調布飛行場のほうに右折してしばらく行くと、近藤勇の生家跡がある。この辺りはかつて上石原村と呼ばれ、近藤勇の実家であった宮川家があった。
近藤勇はそもそも幼名を宮川勝太といい、豪農・宮川久次郎の三男として生まれた。父・久次郎は篤農家として知られ、広大な屋敷の敷地内に寺子屋や天然理心流の道場を持ち、近所の農民の教育に私財をあてているような人だった。勝太は少年時代から剛胆だったようで、宮川家に入った泥棒を撃退した逸話が残っている。そんな勝太の人柄と技に惚れ込んだ天然理心流の近藤周斎は自らの後継者として養子に欲しがり、一度周斎の実家である嶋崎姓を名乗らせた後(周斎も近藤家養子だった)、正式に近藤家に入って近藤勇となった。近藤が16歳の時のことだ。
よく目にする近藤の写真は、新選組が一番隆盛を誇っていた時期に京で撮られたものだが、見た目は実にいかつい。天然理心流を継ぐだけあって剣は非常に鋭かったというが、人間は穏やかだったようだ。宴の余興で拳骨を口の中に入れるという芸を持つ、愛嬌のある人だったらしい。鳥羽伏見の戦いの後に京都から大阪に敗走し、軍艦で江戸に戻った後の新選組は凋落の一途を辿った。甲陽鎮撫隊として再起するが、勝沼で完敗し千葉流山で再び結集する。だが旗本に出世して大久保大和を名乗った近藤は、土方の説得を振り切り一人官軍に投降してしまったのである。その後、大した詮議もないまま板橋刑場で斬首された。投降の理由には諸説あるが、やはりどこかナイーブな面を持っていたのだろうか。
調布市野水には、近藤勇の生家跡が残る。生家跡と言っても、三角の土地に跡地の看板と近藤を祀った小さな神社と井戸があるくらいだ。昭和の初めにはここに宮川家の広大な屋敷があったが、調布飛行場の建設により軍部から立ち退きを命じられた。天然理心流の門人たちの願いで、道場のみは隣家の敷地に移されたが、さらに後年人見街道の拡張工事により再び宮川家の敷地に戻された。現在、近藤勇生家跡の向かいに道場が残っている。試衛館にそっくりな建物だという。
生家跡とほど近い、三鷹市大沢の龍源寺には近藤の墓がある。近藤の墓はこの龍源寺の他に、板橋駅前と会津若松の天寧寺の計3か所にある。板橋は近藤が処刑された場所で隊士の永倉新八が建て、会津の墓は土方歳三が建てた。板橋は引き墓だが、三鷹には胴体が、会津には首か遺髪が埋葬されていると言われている。
近藤勇は流山で官軍に投降した後、新選組の近藤勇であることが分かると土佐藩の強硬論ですぐに斬首となる。当時は、まだ坂本龍馬を暗殺したのは新選組だと信じられていたからだ(近年の研究では真犯人は見廻組)。近藤は旗本という立派な武士階級になっていたにも関わらず、京都の恨みから切腹を許されなかった。斬首された首は晒すために官軍が持ち帰ったため、胴体を板橋刑場そばの無縁墓から宮川家縁者が掘り起こして龍源寺に埋葬したという。
首は京都三条河原で高札と共に晒されたが、やがて何者かによって持ち去られている。近藤を憐れと思った会津藩士か新選組縁の人間と言われているが、その後首がどこにあるのかは判明していない。
近藤がなぜ官軍に単身投降したのかは分からないが、一説によれば近藤は徳川家と同時に天皇家も敬っていた。それゆえ錦旗に弓を向け、逆賊になったことが耐えられなかったのではないかというのだ。ある意味正しいかもしれない。だが、近藤勇という人の人生は、鳥羽伏見の戦いまではまさにサクセスストーリーだった。一介の農民から、小さいとは言え道場主になり、やがて京都で会津松平家お預かりの武士となった。そして最後には天下の旗本にまでなったのである。幕末という混沌として時代ゆえかもしれないが、とんとん拍子だ。
いろいろなものを読むと、近藤という人は意外と俗っぽかったということが様々なエピソードに見え隠れする。「勝ったら城(領地)をやる」と勝海舟に言われて出かけた甲府攻めまでは意気揚々としていたのだろうが、負けていよいよ二度目の“都落ち”となった時、近藤にはそれ以上戦う意味が見いだせなかったのだろうか。もしそうだとしたら、いやそんな近藤だったらどこか親しみを感じられる気がするのだ。
新選組隊士の中で、もっともファンが多いのは副長・土方歳三ではないだろうか。土方を主役に描いた司馬遼太郎の「燃えよ剣」に影響を受けたファンは少なくないはずだ。実は僕もその一人。寄せ集めだった新選組を絶対的な軍事組織に成長させ、天下のその名を知らしめさせる。その後は、凋落し続ける幕軍とともに北に流れ、五稜郭で潔い最期を遂げる。その人生はハードボイルドそのものだ。
土方歳三は日野の豪農・土方家に生まれた。土方家の祖先は、小田原北条家の家臣団だったという。北条家が豊臣家に滅ぼされた後、日野に来て帰農したらしい。日野から西のほうは、そういった帰農した元武士が多い。八王子には江戸時代に千人同心と言われる半士半農の集団がいた。八王子千人同心は武田家の遺臣で、江戸開府にあたって西の守りを固めるため、優秀な人材が多かった武田遺臣を呼び寄せた。日野出身の新選組隊士であり、試衛館で土方の兄弟子にあたる井上源三郎の家などは八王子千人同心と言われている。
日野を含む多摩地方は幕府直轄の天領だ。日野の地形を地図で見ると分かるが、多摩川と浅川に挟まれた典型的な扇状地帯なのである。そもそも関東は火山灰地層で、近藤の本家があった調布などは畑ばかりであった。ところが日野から西は水田が広がる肥沃な場所で、それゆえ豊かな農民が多かった。土方家は日野でいくつも分家があり、田舎で同姓を呼ぶときにありがちな屋号で呼び合っていた。土方歳三の家は「大尽」と呼ばれていたいう。それほど裕福な家だったということだ。
多摩川と浅川がちょうど交わる辺りが歳三の土方家があり、門をくぐる客を見て湯を沸かせば、母屋に着く頃にちょうど湯が沸くくらい広かったというから驚きだ。だが、多摩川と浅川の氾濫で土蔵などが流されたため、少し内陸部に移動したという。その場所には現在も子孫の方が住み、「土方歳三資料館」として一般にも公開されている。
土方歳三資料館館長の土方愛さんは、歳三の兄・土方隼人喜六から数えて6代目の子孫。今年、ご母堂から継いで館長になったという。左の写真を撮る時にファインダーを覗いていたら、どこか目元が歳三に似ている。「皆さん、社交辞令でそう言っていただけますが、さすが6代経っていますからね(笑)。ただ曾祖父は非常に似ていたようですね」。土方歳三は僕にとってずっとヒーローだったので、その子孫と話すのはやはり光栄だし緊張感もある。ましてや美女だとなおさら。
子孫にとって、歳三はどんな人物だと映っているのだろうか。「いろいろ考えて自分の思うように生きた人ですよね。デキはあまり良くなかったみたいですが(笑)」。歳三は10番目の子どもとして生まれた。兄弟の何人かが夭逝しているので、6男だった。母親を早くに亡くしたため、兄や姉に甘やかされて育ったのかもしれない。豊かな家で末弟ともなれば、大らかに育つに違いない。
“鬼の副長”として知られる歳三だが、俳句という意外が趣味を持っていた。「豊玉」という号で俳句を詠み、「豊玉発句集」まで編んでいる。資料館では直筆の句が見られるのだが、その文字が興味深い。司馬遼太郎も「燃えよ剣」の中で評しているように、まるで女性のようにクネクネとしてか細い字なのである。歳三のイメージとはおおよそかけ離れたものだ。ただ後年、京都で活躍した頃に日野に送られた書簡の文字は豪快だ。やはり、末弟として育てられた歳三は、どこか繊細なところがあったのだろう。句はどれも巧いものではないが、感性が豊かだったことが分かる。
興味本位でこんなことを土方館長に尋ねてみた。土方歳三の子孫って、どんな感じなのか? 「私が子どもの頃は、それほど歳三は有名ではなかったし、“先祖に戊辰戦争に行った人がいる”くらいな感じでしたね。歳三がブレイクしたのは昭和40年代に入ったくらいですから」。たしかに昭和40年代になると栗塚旭が歳三を演じたドラマ「新選組血風録」などで、新選組が大変な人気となる。
かつて新選組の屯所があった京都の八木家の人に会った時、京都という土地柄ゆえ賊軍に協力した家は昭和の頃まで肩身が狭かったという話を聞いた。「土方家も明治の頃は大変だったようです。何せ新選組副長の家ですから、官軍にすべてを奪われるのではないかと」。ただ、多摩の農家は天領というプライドがあったのか、土方家の血筋なのか、家の仏壇に歳三の位牌を堂々と仏壇に祀っていたという。
「歳三のイメージを崩さないように生きていかないといけない、そういう意識はいつもありますね。ですが、歳三が先祖でなければ会えなかった人や体験できなかったこともたくさんあります。そういう点は、歳三の子孫ゆえの幸せだと思いますね」。土方家の庭には、歳三が植えた矢竹が今も青々としている。「我、将来武人となりて、名を天下に挙げん」と言って手植えたという。「歳三は水のような人」と土方館長が言うによう、自分の思うまま水のように幕末・明治という時代を流れた人だった。
土方歳三資料館を辞した後、その足で600mほど離れた石田寺に向かった。ここには歳三の墓がある。歳三は五稜郭近くの一本木関門で戦死したというのが通説になっている。だが、その後どこに埋葬されたのかは歴史の謎だ。石田寺には長らく引き墓があったが、平成12年に今の新しい墓が建てられた。中には五稜郭をはじめ、歳三に縁がある函館5カ所の土が供養されて入れられていると土方館長は言っていた。
石田寺の墓は、多くの歴史書などにその写真が掲載されていたのだが、それは非常に古いものだった。新しい墓を建てる時に取り除かれたのかと思い、そのまま帰ってしまったのだが、実は今の墓から少し離れた所に残っていたらしい。案内看板は今の墓地を示しているが、門をくぐると正面に水桶場の建物が見える。ちょうどその裏手に古い墓石があるようだ。現在は、削られないように立派な外枠が付けられているようだ。興味のある方は、こちらも墓参してみてはいかがだろうか。
日野はJRのポスターでもお馴染みだが、とにかく新選組を観光資源にしている。そのため、新選組関連の博物館や資料館が多い。日野市立の「新選組のふるさと歴史館」や「井上源三郎資料館」、「佐藤彦五郎新選組資料館」など見所いっぱいだ。新選組のふるさと歴史館は、もともと郷土博物館だっただけあって、新選組だけでなく、彼らが生まれた日野という土地柄が非常に良く理解できる展示内容となっている。新選組の隊服や土方歳三の洋装で写真が撮れる無料サービスもあるので、チャレンジしてみてはいかがだろうか。
さて、新選組ロードもいよいよ終盤。日野から川崎街道をジムニーで15分ほど南下すると、高幡不動に出る。高幡不動は高幡山金剛寺というのが正式な名称で、新選組とは縁の深い寺だ。土方家の菩提寺であり(石田寺は金剛寺の末寺)、近藤・土方の慰霊碑や土方の銅像がある。歳三は幼い頃、金剛寺の山門に登り、鳥の巣を卵を取って通行人にぶつけていたという逸話も残る。
慰霊碑は明治9年に佐藤彦五郎が中心となって建てたもので、後に徳川慶喜はその前で落涙したという。彼らの忠節は、政治のパワーバランスを抜きにして本物だったということなのだろう。銅像は歳三のものにしては珍しい和装で、一番華やかだった京都の頃の姿を写している。かつて訪れた時は大河ドラマブームもあって、もっと新選組色が街を覆っていたが、時も経ち沈静化していた。
ここからさらに多摩動物園、多摩センターを抜け、町田市小野路に行く予定だったが、時間の都合で今回はここで旅を終えることにした。ちなみに小野路には「小島資料館」がある。小野路の庄屋だった小島鹿之助は、佐藤彦五郎と同様に新選組を物心共に支えた人物。近藤や土方、沖田もここに出稽古に出向いたという記録が残っている。資料館には新選組なら興味深い展示物が多数あるので、機会があれば訪れてほしい。
新選組という名前はを、いまや知らない人は少ない。沈みゆく徳川幕府という舟に最後まで乗り続け、「誠」の忠義を全うした最後のもののふ達。人と人の繋がりが希薄ととなり、日本人の美徳が失われつつある現代だからこそ、彼らの生き様が我々をさらに魅了するのだろう。多摩川で落ちる夕日は、彼らが見た夕日と果たして同じものなのか。現代日本の凋落、平成維新などと叫ぶ輩が多い昨今、ますます彼らがことが思われてならない。
というわけで、今回は東京に残る新選組の足跡を追う旅をお送りした。さらっと見ていくだけでも一日はかかるルートだ。古地図や資料を片手に、2日ほどかけてゆっくりとまわることをおすすめする。それでは日本再発見の旅、次回もお楽しみに!
鬼の副長の生家「土方歳三資料館」
東京都日野市石田2-1-3