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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.031
五時代が融合した町、川越
五時代が融合した町、川越

「小江戸」と呼ばれ、東京・下町文化の源流とも言われる川越。
未だ江戸、明治、大正の建築が多く残り、まるで映画村のような町並みを作っている。
今回はそんなすべての時代が融合してできている川越の魅力を紹介しよう。

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要衝の地として古くから発展した城下町

今も残る川越城本丸御殿の一部。徳川時代には譜代や親藩大名が城主を勤めた。

今年3月、みなとみらい線と東武東上線が相互乗り入れを開始したことで、ますます注目を集めている観光スポットが川越だ。この地はぐるりと入間川に囲まれていることから居住に適した土地で、縄文時代から多くの人々が住んでいたらしい。鎌倉時代には源頼朝の家臣であった秩父の武士・河越重頼がここに河越館を築いて拠点とした。

室町時代には関東管領の扇谷上杉持朝と古河公方の足利成氏の係争地域であったことから、上杉持朝が家臣の太田道真・太田道灌親子に命じて“川越城”を築城した。その後、川越城は小田原の後北条氏に支配され、豊臣秀吉、徳川家康と為政者を変えながら徐々に発展していった。

徳川時代、江戸にとっては北の守りを堅める要衝であったため、幕府の要職が代々城主を勤めた。そのため、川越藩は事実上の天領のようなものだった。川越城の城下町は発展して“小江戸”と言われ、入間川、荒川の舟運によって多くの農作物や文化が江戸に運ばれたという。

現在の川越は城の遺構も本丸御殿以外はほぼ無くなり、西武新宿線本川越駅、東武東上線とJRの川越駅を中心に広がる35万人都市となっている。ただ、室町、江戸、明治、大正のそれぞれの時代に造られた寺社や建築が未だに町中に残っており、まるで映画村のような独特の雰囲気を持っている。

クルマなら都内から高速道路を使えば1時間ほどでアクセス可能。今回は河野隊長も山岡Cもいないので、久しぶりの一人探検となった。探検とは言うものの、かく言う僕は川越観光フリーペーパー&サイト「川越専科」の制作のお手伝いもさせていただいている。それゆえ自称ではあるが観光大使ならぬ“観光太鼓持ち”として、今回は川越の魅力をできるだけお伝えできればと思っている。

(上)明治以降も埋められることなく残った中ノ門堀跡。(下)川越城の天守閣の代わりであった富士見櫓の跡。

さて、川越城に話を戻そう。先述の通り、川越城は明治の廃城令で取り壊され、本丸御殿の一部以外はほとんど残っていない。太田道灌親子に築城された川越城はその後“リサイクル”され、江戸の最盛期には本丸、二ノ丸、三ノ丸の他、4つの櫓を持つ大きな城だったらしい。天守閣は持たず、最も大きな富士見櫓が天守閣の代わりとなっていた。その富士見櫓も土台を残すだけで、今は威容を窺い知ることはできない。

本丸御殿と川越市役所の中間の道沿いに、中ノ門堀跡がある。かつては本丸を囲むように二重三重に堀が巡らされていたが(探検ギャラリー参照)、廃城後にほとんどが埋め立てられ、今残っているのは中ノ門堀だけだ。だがその堀を見ると、川越城の規模がいかに大きかったが分かる。ちなみに二ノ丸跡に建てられた「川越市立博物館」に行けば、江戸期の城の様子や城下町の様子を知ることができる。

城らしい城が残っていない川越城なのに、なぜか『日本百名城』と『関東七名城』に選出されている。それは本丸御殿大広間が建築当時のままの姿で残されているから。当時のままで残っているのは、広い日本の中で高知城と川越城だけ。実は川越城の本丸御殿は、廃城後に県庁や公会所、煙草工場、武道場、学校とその役割を次々と変えたが、昭和42年に県指定有形文化財になったことで現在のような保存がされるようになった。家老詰所は一時は上福岡市で民家として使用されていたが、こちらも有形文化財に指定され現在の場所に移築されている。

川越市内には今も神社仏閣が多く残り、町には明治・大正期の商業建築が多く残っているのは、入間川に囲まれた要衝であったからなのである。つまり戦略的に適した場所だったからこそ、この町が現在まで残ったと言っても過言ではない。

川越は関東屈指のパワースポット

830年に創建された天台宗の名刹・喜多院。幕府からの庇護も厚かった。

城下町には大抵多くの寺社が残っているものだが、川越も例外ではない。その中でも大きいのが、川越城下町の中核であった「喜多院」、後北条氏に庇護された「蓮馨寺」、そして1500年前の古墳時代に創建されたと伝えられる「川越氷川神社」の三箇所。

喜多院は830年の平安時代に開基された古刹だ。1599年の徳川家康の知恵袋と言われた天海僧正が第27代の法灯を継ぎ、家康が度々同院を訪れたこともあり、幕府の庇護を受けることになった。家光の信仰も厚く、同院が火災で焼失した時に江戸城の一部をここに移築させたほどである。それゆえに、同院には「家光誕生の間」や「春日の局化粧の間」といった貴重な遺構が残っている。現在は保存改装中のため、日によっては内部を見学することができない場合があるが、ぜひ観たい文化財のひとつだ。

喜多院は徳川家の庇護もあって、川越にかなり広い寺領地を持っていたという。それだけ天海への家康や家光の信頼が厚かったということもあるが、実はもうひとつ大きな理由がある。今でこそ明治の神仏分離によって管轄が異なるが、喜多院の境内には日本三大東照宮のひとつがあるのだ。日光、久能山と並んで3つめは川越にあったのである。

家康の遺骸はその遺言により一度久能山東照宮に埋葬された後、日光東照宮の完成を待ってそこに移された。そのすべてを取り仕切ったのが天海だった。川越の仙波東照宮は天海の寺だったこともあり日光に移送する途中に立ち寄り、ここで盛大な法要が行ったという。そして、ここに家康を祭神とする仙波東照宮が建てられたのである。

家光の祖父に対するリスペクトは大層なものだったと伝えられているから、祖父を祀る重要な場所が燃えたとあったら、すぐに江戸城の一部を移築させるという行動も分からなくない。ちなみに喜多院は「川越大師」とも呼ばれており、厄除けのお寺としても有名だ。関東だと佐野厄除け大師や川崎大師が有名だが、スピリチュアルな能力を持った有名人いわく「関東で一番力があるパワースポット」らしい。

川越氷川神社は縁結びやカップル向けの様々なイベントが盛んな神社だ。

川越で喜多院に並ぶパワースポットと言えば、川越氷川神社だ。大宮にある氷川神社の縁起も古いと言われるが、川越氷川神社は541年に入間川で夜な夜な光るものがあり、これが氷川神の霊光ということで氷川神社がここに勧請されたという。氷川神社の祭神はスサオノノミコトとその妻、妻の両親、そして大国主命の5柱。氷川神社は川越のいたる所に見られ、なんと14社もある。かつて武蔵国と言われた埼玉一帯は氷川信仰が強い土地だ。

なぜ氷川信仰=スサノオ信仰が強いのか。埼玉には荒川やその支流が多く流れ、それは時として氾濫を起こして人々を悩ませた。河川が暴れる様から、きっと人々は八岐大蛇が暴れる様子を想像したのだろう。そこで八岐大蛇を退治したスサオノオを信仰することに結びついたと思われる。

スサノオと妻のクシナダヒメは夫婦仲のいいことでも知られるため、川越氷川神社は縁結びの神様として昨今の女子たちに人気を博している。平日でもいい縁を願う若い女子たちで境内は賑わっているのだが、この氷川女子たちに人気なのが「縁結び玉」だ。縁結び玉は境内の石を巫女がひとつひとつ麻の網に包み、それを神職がお祓いしてお守りにしている。

これを持ち帰ると良縁に恵まれるというクチコミがあり、マスメディアでも紹介されたことから大変な人気なんだとか。縁結び玉は数が限定で、毎朝8時から配布される。ただし、お守りを求めて毎朝早朝から人が並んでいるため、ラッキーでないといただけない。平日は比較的人が少ないようだから、良縁に恵まれたい読者諸兄はがんばって早朝に並んでいただきたい。

ちなみにこの神社では合コン的なイベントやカップル向けイベントがいろいろと開催されているので、神様公認で女子と仲良くなりたい方はご参加あれ。

江戸にタイムスリップできる一番街

川越屈指の観光スポットである一番街。町の商業中心地だ。

さて、城、寺社と来たからいよいよ城下町にご案内しよう。川越観光のメーンイベントとも言えるのが、「一番街」だ。30棟以上の蔵造り建築が立ち並び、そこはまるで映画のセットの世界。中には大沢家住宅(国指定重要文化財)のように江戸期に建てられたものもあるが、ほとんどの建築が川越大火(明治26年)の後に建て替えられた蔵だ。

それでもどの建築も100年以上経っているのだから、現代では映画村のようだ。この地域は川越藩藩主の松平信綱によって町割されたところで、たびたび火事に見舞われていたことから瓦葺きが推奨された。この建築が火事に強いことから、江戸にも広まっていったのである。川越が“江戸の母”と言われる由縁はこんなところにもある。

川越藩は川越、所沢、入間、三芳、新座などの一帯を管轄する藩で、いわば江戸の経済流通を支えるサテライトシティのようなものであった。周知の通り川越の中心部はぐるりと新河岸川(入間川の支流)に囲まれ、それが入間川に流れてさらには荒川へと繋がり、最後は江戸市中へと入っていく舟運のインフラに恵まれていた。藩内で生産された農作物や絹織物や工芸品などが一番街が集められ、舟で江戸へと運ばれていったのである。

舟を使った流通は鉄道や自動車に取って代わられたため、昭和初期には河岸はほとんどなくなってしまったようだが、仙波新河岸史跡公園(探検ギャラリー参照)に行くと、今も河岸と水路の名残を見ることができる。

川越のランドマーク・時の鐘。現在のものは4代目で明治に建てられた。

一番街のちょうど中くらいに、ひときわ目立つ木造の塔が建っている。それが川越のシンボルである「時の鐘」だ。その名の通り、市中に時間を知らせるために400年ほど前に藩主・酒井忠勝によって創建されたとされる。何度も火災に遭っており、現在の鐘楼は川越大火の後に再建した4代目。

今も午前6時、正午、午後3時、午後6時の4回、趣のある鐘の音で時刻を市民に知らせてくれる。この音は、環境省認定の「残したい日本の音100選」に認定されている。

昔は時刻前になると人が鐘楼に登って鐘を突いたのだが、今は機械じかけのオートマチック。家にある時計のでっかい版なわけだが、それでも音の良さは昔ながら。夕暮れの町で“ゴ〜ン”という音を聞けば、つい夜泣き蕎麦をたぐりたくなるような雰囲気だ。

ちなみに、この鐘のすぐ下に「鐘撞堂下 田中屋」という老舗の団子屋さんがあるのだが、ここの団子は絶品。醤油味の昔ながらの団子は、まさに時の鐘の風情にぴったりだ。午後早めの時間に売り切れてしまうので、早めの時間帯にご賞味あれ。

もうひとつ情報だが、蔵の内部を見学するスポットとしては「大沢家住宅」がメジャーだが、ここは見学するのに有料となる。ちょっと中が観たい…という人には「仲町観光案内所」がおすすめ。ここはかつて笠間家という呉服家だったところで、それを市が観光案内所やイベントスポットとして使用している。さほど大きくないが蔵造りの内部を観ることができる。もちろん無料だ。トイレやベンチもあるので、休憩スポットとしても最適だ。

<その2に続く>