すでにこのHPでも伝えているように、『ラリーモンゴリア2014』において、
TEAMアピオの尾上 茂/森光 力組がクラスAで見事優勝を果たした。
齢67にして、いまだ現役ラリーストとして活動を続ける、アピオ株式会社会長の尾上茂。
尾上がモータースポーツにかける情熱、そしてアピオのアイテムには、
他ブランドではありえないある"関係"があった。
<文/山崎友貴 写真/SSER、山岡和正>
まずは「走れる」と考えるのが尾上流
僕が四輪駆動車専門誌の編集部に入ってすぐに、あるレース取材を命じられた。かつてあった日本四輪駆動車協会が富士スピードウェイのオフロードコースで開催していたもので、協会の頭文字から通称「JFWDA戦」と呼ばれていた。
富士スピードウェイのオフロードコースというのは今は無くなってしまったが、あの伝説の30度バンクのすぐ脇に設置されていた。スーパークロスも真っ青の難コースで、そこを重量級のクロスカントリー4WDがバイクに負けじと飛んだり跳ねたりするわけである。レースの迫力もさることながら、レースのために造られたマシンがクラッシュする様も観客を魅了するファクターとなっていたのである。
そんな激しいレースの中で、いつも小さなジムニーで飛んでいたのが尾上茂である。JFWDA戦はクラス混合レースであったので、ジムニーは上位クラスのパジェロやビッグホーン、Jeepなどと一緒に走らなければならなかったのである。大きなマシンに混じって、小さなジムニーが走る様を初めて観た時“大丈夫か?”と感じた記憶がある。
だが尾上がドライブするジムニーは、格上のマシンと肩を並べてコースを疾走した。
「正直、最初はJFWDA戦なんてと思ってたんだよね。でも、初レースは1周目でリタイヤ。ディストリビューターのコードが衝撃で外れてたんだよ。」
最初の頃は、いつも何かしらのトラブルがあったと尾上は回想する。だが、そのトラブルをリカバリーする度に新しいパーツが生まれた。特にテーパーリーフスプリングなど新しい足周りパーツが多く生まれた。アピオの『ROADWINシリーズ』をはじめとするサスペンションは高い性能を有していると評判だが、その礎はJFWDA戦が始まりだったと尾上は回想する。そして、APIOというブランドの出発地点がここにあった。
「まずは走れると思って行くんだけど、走れない場合があるんだよ。だから、どうしたら走れるかを考える。そしてパーツを造ったり、クルマをいじったりね。」
3年ほどJFWDA戦を走っていると、いつの間にかクラスで常勝するようになった。すると、彼の情熱はさらなる高みに向かってしまったのである。「なんかもういいかなと思ってて。オーストラリアに行った時に向こうの友人から“オーストラリアサファリっていうレースがあるぞ”と言われたんだ。だからそれがいいやって、参戦することにしたんだよ。」
この時のことも、よく覚えている。当時の日本は好景気で、四駆業界も空前のブームに湧いていた。だから、ちょっとしたオフロードレースに出たり、参戦マシンをスポンサードするパーツメーカーはあったが、社長(当時)自らがラリーに出てしまうメーカーやショップはまずなかった。それゆえ尾上の参戦は、業界でもかなりの話題になったものだ。オーストラリアンサファリは海外ラリーレイド。日本の草レースのJFWDA戦とはワケが違うと。
1989年、尾上は市販車改造部門のエスクードでオーストラリアのアウトバックを疾走。結局、このラリーレイドには95年まで出場し、クラス優勝5回、95年には総合6位も果たした。このラリーから生まれたエスクード用パーツもまた、アピオの看板商品となっていく。
鼻ぱっしらを折られたパリ・ダカールの過酷
何度か話していると分かってくるのだが、尾上という人物はおそらく自分を追い込むのが好きなのだと思う。だから、ある程度上手くいきはじめると、次のステージに行きたくなってしまう。オーストラリアで海外ラリーを経験した尾上は、カリフォルニアからメキシコの区間で行われるBAJA1000にワイルドグース代表の二階堂裕氏と参戦を画策。だが、あまりの高速ラリーのため、ジムニーやエスクードは無理という結論に達する。
1997年。ついに尾上は、四駆レースの最高峰「パリ・ダカールラリー」に参戦することを考える。「パリ・ダカなんて楽勝だろうと思ってたね(笑)。」だが、開けてみれば結果は1日でリタイヤ。それから3年連続でリタイヤという憂き目を見ることになる。「とにかく、プライベーターというのは何のサポートもないんだ。何から何まで自分でやらなければならない。これは辛かったね。寝る時間なんてないんだから。SSが終わったらマシンの整備して、それが終わったらスタートなんだよ。」
普通のパーツメーカーの経営者であれば、3年連続ダメなら諦めているだろう。パリ・ダカールのエントリーフィーは半端ではない。保険料だけだって、驚くほどの金がかかる。普通だったら投げ出して当たり前。だが、尾上は違った。何と9年もの間、パリ・ダカに出場し続けたのである。日本では四駆ブームは終わり、パリ・ダカの注目度が下がっていたが、それでも自分の課せられた使命かのように。
最高で総合45位という成績をパリ・ダカで残し、2005年でその挑戦は幕を閉じた。だがその2年後には「BTOU2007」、2008年からはラリーモンゴリアに参戦を開始した。
ラリーモンゴリアでは同じTEAMアピオの菅原義正氏とのバトルが“恒例行事”となり、お互いにライバル心を隠すことなく全開走行で闘っているらしい。世間ではリタイヤ生活…という年齢の二人だが、その衰え知らずのパワーには敬服するしかない。
「今年は高速ラリーできつかった。ジムニーには限界と思えるところまで行ったと思うね。これ以上のスピードはジムニーには危険かもな。」まずは“走れる”と思うというのが尾上流だが、だからと言ってドン・キ・ホーテではない。冷静に分析し、結論を導き出すところは、さすがベテランラリーストである。
“尾上さんは、砂を走るのがまだまだ下手”なんて菅原氏から言われ苦笑するというシーンが、ラリーモンゴリアン2014結果報告会で見られたが、一方でエンジニアとしてのプライドは負けていない。「菅原さんは、こういうメカのことがわかってないんですよ」とすかさずやり返す。
発表会が終わってから、別の席で聞いてみた。「尾上さんがラリーに出ていることで、アピオ製品に様々なノウハウがフィードバックされているんでしょうね」と。だが、尾上はすかさず言う。「フィードバックはしてないな。だって、その年のラリーを走るために考えてパーツを造ってるだけだから。パーツが先なんだよ。」
売れるモノなんて造りたくない、必要なモノだけ造る
「俺は売れるモノをアピオで造りたいなんて思ったことがないんだ。どうしたら売れるかなんてね。ラリーやレースに出るため、走るために必要なパーツを造ってきた。もっと言ってしまえば、自分のためだね。」
尾上が様々な経験やアイデアで開発したパーツは、ほぼそのまま市販化されていくのである。好評のコンプリートカー「TSシリーズ」も、一部をモディファイすればラリーに出られるポテンシャルを有しているのである。
多くのコンストラクターはレースシーンで得たノウハウを、市販製品にフィードバックしていく。だが、アピオの製品はベクトルが逆だったのである。自分で使って良かったモノを出す。極めてシンプル。
こうなってくると、アピオというブランドと尾上のモータースポーツ活動は、きわめてイコールにも思えてくる。フェイクではない本物だからこそ、多くのジムニーファンの心を感動させるんだろうと思う。
自分も自動車雑誌編集者の端くれとして、様々なチューニングカーに乗ってきたが、APIOのTSシリーズに乗るといい気分になる。それは乗り手、つまりユーザーに何の無理もさせていないからだ。オンロードでは弱アンダーで素直に曲がり、直進安定性も悪くない。マッドタイヤのトレッドや路面のハーシュが後頭部をゴツゴツと突き抜けることがない。オフロードに入れば、水を得た魚のように生き生きと走り、クロカンでは自分がすごく上手くなったように思える。世辞抜きで気持ちのいいクルマに仕上がっている。この理由は何なのだろうか。数年間、ずっと気になっていた。
「ちょっと買い物に行くわ」と言って、尾上は往復100kmはある道のりを大好きなロードサイクルで出かけてしまう。自分が67歳になった時、間違いなくこうはなっていない気がする。健全な身体に健全な魂。そんな尾上から生まれてくるアピオの“モノ”もまた健全だ。だから、アピオのジムニーはきっと気持ちいいんだと思う。