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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.039
回帰できる町、桐生
回帰できる町、桐生

アベノミクスだの何だのと言っても、日本の閉塞感はいまだ解消されない。
経済はともかくとして、なぜ日本人の心は重くなっているだろうか。
かつて群馬に「織都」と呼ばれて、大層栄えた町があった。桐生市。
今回はまるで各時代が揃った博物館のような町を巡ってみたい。

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奈良時代から続く機業の町

上:明治11年に建てられた桐生明治館。下:右は明治、左は大正の建築である森合資会社。

2014年もスタートしたが、なかなか日本人の心は澄み渡らない。東アジア諸国との外交問題や国内経済、東北復興や沖縄基地問題など、私たちの上に様々な問題がのしかかっている。

何となく行き詰まった時、僕は地方に出かけることにしている。今やほとんどの日本の地方都市は過疎や高齢化といった問題を抱えており、かつて栄えた町でも信じられないほど寂れている。だが、そんな夢の跡のような場所にこそ「なぜその時代に日本は元気だったのか?」という答えがあるように思えるのだ。

昨年暮れに、僕は癒しを求めて桐生を訪れた。これまでも多くの古い町を訪れたがそれらとは何かが違い、桐生という町は心の隙間にぴったりとフィットするような不思議な雰囲気を放っていた。残念ながらその時は時間が少なく、あまり多くを見ることができなかったため、今回河野隊長と共に再訪することにしたのである。

都心からは関越自動車道、北関東自動車道と乗り継いで2時間弱。ジムニーでもあっという間に着く。多くの諸兄はご存知だと思うが、桐生は機業で栄えた町であり、その起源は奈良時代と実に古い。この地は養蚕や絹織物の技術を持った人々が都から移り住み、朝廷に「あさぎぬ(絹)」を献上していたという記録が残る。

本町通りを中心に様々時代の建築が残っている。観光地化されていないところが魅力だ。

桐生は平安時代から足利時代にかけて藤原氏系の豪族である桐生氏が支配したが、その後由良氏の支配を経て、徳川の天領となった。5代将軍の徳川綱吉の館林藩領地だった時代もある。江戸時代にはすでにマニュファクチュアが導入されており、以後、明治・大正・江戸と桐生の機業が日本の基幹産業となった。

桐生には各時代の古い建築が多く残っているが、それには二つの理由がある。それは関東大震災の被害を受けなかったことと、空襲被害がなかったことだ。周辺の高崎、前橋、太田、伊勢崎は大規模な空襲で大きな被害を受けたが、桐生は機銃掃射をされたくらいで大した被害がなかったという。このため、桐生のメイン通りとも言える「本町通り」を中心に文化財指定を受けている多くの建物がタイムカプセルのように平成の世に残った。

どこを歩いても“三丁目の夕陽”

桐生の最大の魅力は、そこに住む人たちなのではないだろうか。

戦後、和装の衰退により桐生の機業も徐々に衰えていった。だが桐生はいち早く産業を転換し、今では自動車部品やパチンコ部品などを製造しているメーカーが多い。町にはいかにも平成に建てられた施設もあるが、多くは古いものをそのまま上手に活かしている。

昭和40年代以前の世代の方なら「ああ、子供の頃の日本ってこうだったな」と思える雰囲気に溢れている。昭和の建物が多く残っていると言えばそうなのだが、それだけではない何かが僕らの心に心地よいノスタルジーを感じさせてくれるのだ。

例えばそこに住む人だったり、陰影だったり、時間の流れだったり。隊長と僕がそぞろ歩きをしていると、ちょうど小学生の下校時間にあたった。多くの地方の子供は都市部の子供と違って礼儀正しいものだが、ここ桐生の子供も「こんにちわ〜」と誰もが挨拶していく。それどころか、すれ違う大人さえも挨拶をしていく。

僕ら子供だった頃の風景が、さりげなくここかしこに残る。

それは当たり前のようで、都会ではあまり見られなくなってしまった「日本の美しい風景」のひとつだ。隊長も同じ感想を抱いたようだが、桐生の人々は実にあたかかい。観光客だからと言って過剰なサービス精神を発揮するのではなく、日本人の誰もがかつて持っていたはずの真心を、ごく自然に見せてくれるといった感じだ。

某出版社が誌面で行った「住みたい田舎ランキング」において、桐生は[子育て世代にぴったりな田舎部門]で1位に輝いている。文句なくうなずける結果だ。よそ者をシャットアウトすることなく、自然に受け入れている懐の深さが、きっとこの町にはあるのだろう。

TS4で路地に入ったり、クルマを駐めて町を歩いたりしているうちに、どんどん桐生という町に魅了されていく自分に気づく。隊長もこの町がいたく気に入ったようで、スナップショットに暇がないようだ。

陽が傾きはじめると、赤城山から空っ風が強くなる。気温は一気に下がると、町の灯りがなおさら恋しくなった。暖かい茶の間を目指して家路を急いだ少年の日が懐かしく思い起こされる。桐生には、かたまった人の心を和らげてくれる不思議な力があるようだ。

江戸時代に横浜からやってきた鰻屋

創業当時の佇まいを残した店で絶品の鰻が食べられる「泉新」。

桐生は東に渡良瀬川、西に桐生川が流れる扇状地帯だ。それゆえ、当然川魚が美味い。鰻も桐生名物のひとつ。市内には鰻屋が数多くあるが、本町通り沿いにある「泉新」は、創業天保元年(1829年)という老舗中の老舗だ。

江戸時代に生糸で莫大な富を築いた関東三大富豪のひとり、佐羽清兵衛が「桐生に美味い鰻屋を」と望んで、横浜にあった和泉屋という店をこの地に移した。金持ちのやることはダイナミックだ。店主・和泉屋新造が心機一転この地で開いたのが「泉新」なのである。

道路拡張で曳屋されており、内外装とも若干手が入れられているようだが、基本的な造りは昭和初期のものらしい。現店主は創業者から六代目にあたり、昔ながらの味を守っているという。

実は前回下見に来た時には鰻屋だと築かず、帰宅してからそのことを知って歯がみをした。なので隊長にも事前に「今回の昼食は鰻で」と予告をしていた。読者諸兄には前回も鰻だったので申し訳ないところだが、やはり名店と聞いては見逃せない。

鰻重3200円。泉新●桐生市本町3-3-2 TEL0277−22-2234 

暖簾をくぐると、立派な神棚と感じの良い女性が出迎えてくれる。「ウチは鰻重1種類だけなんですけど、よろしいですか?」と言うので、さぞ高いのかと思って身構えたが、お昼のコースで3200円というので安心した。

店内は外観とは異なりごく普通の雰囲気だが、掘りごたつというのは冷えた身体にはありがたい。泉新は「ウバメガシ」という炭を使って焼くのがこだわりのようで、米も毎日自家精米した魚沼産コシヒカリを使っているのだという。

運ばれてくると内容が実に豪華で、鰻重、きも吸い、香の物、サラダ、デザートで1セット。しかも鰻が大きく、さすが物価が安い桐生だ。奇しくも隊長も僕も糖質ダイエット中で炭水化物を控えているのだが、これが目の前に出されて喰わないのは「武士の恥」というもの。

タレの味は甘めだが、べったりしておらず上品な味だ。炭にこだわって焼いているというだけあって、身がふっくらしている。クルマでなければ、隊長も僕も鰻に合わせて一杯やってしまっているところだ。

ちなみに鰻は桐生グルメの松コースだが、ソースカツ丼やひもかわうどんもご当地の名物。こちらも是非一度試してみたいところだ。

桐生のシンボル“のこぎり屋根”

旧曽我織物工場は大正11年に建築された石造りの工場だ。

明治・大正・昭和と機業が盛んだったことは前述の通りだが、そんな桐生のシンボルとも言えるのが「のこぎり屋根の工場」だ。地図で工場を示すマークは未だにのこぎり屋根だが、昨今ではそんな形状の工場は巷にはなかなかない。この連載の第1回目の行田でものこぎり屋根の工場をご紹介したが、桐生のように多くの建築が残っている地域も珍しいのではないだろうか。

のこぎり屋根の工場は、産業革命の頃のイギリスで考案された。もともと織物工場として考えられたものだが、この形状には実に様々な機能が盛り込まれている。まず垂直な部分を北側に向けて窓を取り付けると、屋内の光が一日を通してほぼフラットになる。それゆえ、織物の色合いを確認しやすい。

第二に天井が高いため、当時主流だったジャガード織機のモーターのシャフトを取り付ける空間が確保しやすかった。またのこぎり形状によって、織機から出る騒音を打ち消す効果もあった。さらに「連」と言われる三角屋根をどんどん繋げていけば、事業が拡張した際に容易に工場を増築できるというメリットがあった。絵で描くと単純だが、あの形には深慮遠謀があったのである。

織物参考館・紫は様々な織機を実際に動かすことができる。隊長も興味津々。

驚くことに、のこぎり屋根の工場の多くはまだ現役。見学できるものもあるが、「織物参考館・紫(ゆかり)」ならば、予約なしに内部を見学できるということなのでぶらりと立ち寄ってみた。

ここは大正13年に建造された工場を博物館にしたもので、内部には江戸、明治、大正、昭和に実際に使った多種多様な織機が展示されている。しかもそのうちのいくつかは、何と実際に動かしてみることができるのだ。これまた非常に感じの良い女性が展示物を説明してくれる。

日本の織機というのは、ほとんど豊田佐吉が考えたのだと思っていたのだが、実は江戸期に相当な進歩を遂げていたのにはビックリした。「やってみますか?」と言うお姉様の微笑みに負けて、つい「はい」と言ってしまった。隊長とふたりで巨大な機織り機をガッチャンガッチャンと動かしてみると、何とも不器用なオーラが出ている機織り物が少し出てきた。

肝心ののこぎり屋根の工場は非常によくできており、想像以上に中が明るい。かつて「西の西陣、東の桐生」と言われた桐生織がここでも作られたいたことを思うと、まさに“兵どもも夢のあと”なおもむきである。

<vol.2へ続く>

上毛電気鉄道の西桐生駅は昭和3年に完成した駅。