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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.050
国を開けなさ〜いツアー[横須賀]
国を開けなさ〜いツアー[横須賀]

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」
川柳でお馴染みの黒船来航は、日本の近代化のきっかけともなった事件だ。
その黒船がやって来たのが、浦賀である。
ジムニーは観音崎、浦賀、そして久里浜へと探検を続ける。

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観音崎は様々な遺構が残るワンダーランド

観音崎灯台の近くにある北門第二砲台。明治17年に完成したが、関東大震災によって除籍になった。

観音崎は三浦半島側では東京湾の先端にあたる場所だ。それ故、首都防衛の要とされてきた。特に欧米列強の脅威が深刻化した明治中期になると、政府は清国やロシアの侵入を想定した東京湾要塞計画を推進したのである。

東京湾要塞は、第一、第二、第三の各海堡を中心に、三浦半島、房総半島の各地の砲台で形成する軍事施設の集合体だ。関東大震災によってその多くは甚大な被害を受けたが、今も多くの遺構が残っている。

観音崎にも8つの砲台が設けられ、いまもその跡を見ることができる。ジムニーを降りて、岬の山中を散策してみると突如レンガ造りの砲台跡が現れる。軍事施設だったわけだが、今見るとそのレトロな雰囲気と深い緑のコントラストが幻想的だ。

注意して見ていただきたいのは、同じレンガ造りでも積み方に違いがあるということ。明治期の日本のレンガ建築には主に、ふたつの種類があった。ひとつめはフランス積み(正式にはフランドル積み)。ひとつの列に長手と小口が並んで見える積み方だ。もうひとつはイギリス積み。こちらは一段は長手、その上は小口、さらに上はまた長手と交互に積んでいく方法。当初、日本はフランス積みを採用していたが、イギリス積みのほうが合理的で強度も強いため、明治20年以降の建築物はほとんどイギリス積みになっている。

現在、観音崎には8ヶ所の砲台跡が残っており、海上自衛隊施設内にある第四砲台を除いてすべて観ることができる。そのほとんどがイギリス積みだが、皆さんも訪れてその違いを確認してみると面白いと思う。

上)関東大震災で崩壊した2代目観音崎灯台の残骸。下)試験的に作られた観音崎聴測所の跡。

観音崎は徒歩でぐるりと周ることができるが、いろいろと面白い遺構が残っている。そのひとつが2代目観音崎灯台の残骸だ。初代はヴェルニーによって明治2年に建てられた。初代はレンガ造りだった。大正11年まで活躍したが、大きな地震で亀裂が入って立て替えとなる。

その初代に代ってコンクリートで造られたのが2代目だったが、大正12年3月に完成して同年9月に関東大震災により倒壊するという憂き目にあっている。ちなみに現在の灯台は3代目。

観音崎園地の遊歩道を歩いていると、一部海側の崖が崩落している部分があるが、2代目灯台の残骸はその下にある。よくよく気をつけて見ていないと分からない場所だ。残骸は灯台上部の人が歩く部分のようだが、大正時代にデザインされたとあって、ちょっとモダンな感じだ。90年近くここに放置されているのも不思議だが、かつての惨劇をいまに伝える歴史遺産と言える。

もうひとつ歴史資産と言えるのが、陸軍が建設した観音崎水中聴測所の跡地だ。聴測所とは、敵潜水艦をパッシブソナーで見つける施設のこと。ここ観音崎には全国に先駆けて、昭和12年に聴測所が試験的に造られた。この聴測所は現在、海上自衛隊の施設内にあるため間近に観ることができないが、遊歩道などから遠目に観察することができる。

日本が戦争から遠ざかって久しいが、観音崎の様々な遺構を観ると、日本が戦争をしていた時代があったんだと実感するのである。

ちなみにガリバー旅行記では、小人の国と巨人の国を旅してきたガリバーが日本のザモスキに上陸したと書かれているが、このザモスキは観音崎ではないかと言われている。そしてガリバーは、あの「将軍」でお馴染みの三浦按針をモデルにしているという説があることを付け加えておきたい。

咸臨丸も出港した浦賀

名勝愛宕山から観た浦賀の港。左手に入り江が深く続き、右手が東京湾になる。

浦賀と言えば、ペリーら東インド艦隊が来港した地であることは、小学生の歴史の時間で習う。ペリーの来航については後の項で詳しく述べるが、ここ浦賀は幕府海軍の発祥地であり、拠点であったことは意外と知られていない。

小栗上野介が横須賀に製鉄所、のちの造船所を造ったことは前述した。だがそれよりも前、幕府はここ浦賀に造船所を造っていたのである。ペリー来航後の1853年、幕府はその脅威に対抗すべく大船建造禁止令を解いて、各大名に洋艦建造を推奨した。

幕府も自ら、この浦賀に造船所を造って、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造。1959年には国内初のドライドックを完成させ、ここであの咸臨丸の整備も行われた。

明治9年に一度造船所は閉鎖されるが、明治30年に浦賀船渠として復活し、明治33年に第一号ドックが完成する。そして近くに東京石川島造船所浦賀分工場なども完成して、浦賀は造船の町となるのである。浦賀は小型艦艇の建造が主で、戦時中は駆逐艦の建造が盛んであったらしい。

上)明治33年に完成した第一号ドックと下)明治34年に完成した川間ドック。どちらも世界でも貴重なレンガ造りのドライドックだ。

戦後には空母ミッドウェイの改修や日本丸の建造などが行われた。明治時代に完成した第一号ドックは旧住友重機械工業浦賀艦船工場の閉鎖によって使われることはなくなったが、貴重な産業遺産として今も残っている。ちなみにレンガ造りのドライドックは世界でも4つしか残されていないとかで、その内の2つがここ浦賀にあるのがすごい。

第一号ドックは年に2回しか一般公開されていないが、コープうらがの前の塀越しに見物することができる。ちなみにこの塀はレンガ造りなのだが、これも当時のもので、フランス積みでできている。

先ほど咸臨丸の整備を浦賀で行ったと書いたが、日米修好通称条約の批准書交換のためにアメリカへと出航したのも、この浦賀なのである。咸臨丸は幕府がオランダに発注してできた様式軍艦で、長さ約49m、3本のマストと12門の砲を持っていた。浦賀を出た咸臨丸は37日間の航海の後、初の日の丸を翻しながらサンフランシスコに入港した。

現在、愛宕山の山中に咸臨丸出港を記念する碑が建てられているが、日米外交の歴史を窺わせるものはそれくらいである。だが、この地に勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎たちが生き、アメリカ渡航を前に様々な思いを抱いていたのは歴史の事実。この浦賀という小さな港町から日本近代化が始まったのかと思うと、その風景も特別なものに見えてくるのだ。

勝海舟も愛した鰻

明治に入ってから、勝が浦賀に訪れた際は必ず寄ったという梅本の鰻。

浦賀の旧遊郭があった一帯は、いまは静かな住宅地となっている。その一角に、鰻好きには有名な「梅本」はある。実は、この鰻屋は勝海舟が足繁く通ったという店だ。

勝は明治に入ってからも浦賀の町を懐かしんで、よく通ってきたという。勝海舟の鰻好きは結構有名な話で、浅草にある「うなぎ やっこ」では常連だった。

梅本はカウンター6席、テーブル8席しかない小さな店だ。だが明治初年に創業した老舗である。元々は海辺で始めたようだが、後に今の場所に移ってきたという。浦賀が造船で栄えた頃には、きっと梅本も繁盛したに違いない。

店内に入ると、勝海舟の小さな立像と壁の写真はあるものの、特に繋がりを感じさせるものはない。昔はふすまに勝の書が残っていたらしいが、昭和の恐慌で金に困った先々代だかが売り払ってしまったらしい。残念なことだ。

年季の入った重箱に、ふっくらと焼き上がった鰻が納まってやって来た。タレは140年間伝わってきた味とかで、食べると甘みが抑えられていて実に新鮮な味がする。今のように媚びた甘さはなく、まさに骨太の味がして美味い。鰻丼は1600円、鰻重は2300円〜だが、この味なら決して高くないと思う。

横須賀でのカレーを我慢して、お昼はぜひ鰻をお試しあれ。

渡し船で参詣する二つの神社

1181年に源氏の再興を祈願して石清水神社を勧請した叶神社。写真は東叶神社。

浦賀には神奈川県内でも屈指のパワースポットがある。それが東叶神社と西叶神社だ。そもそも東叶神社は高雄山神護寺の僧・文覚が源氏の再興を祈願して、1181年に石清水八幡を勧請したのが始まりと言われている。ちなみに文覚は源頼朝と懇意だったようだ。

その後、頼朝が幕府を開いたことから「願いが叶う」ということで、叶大明神と呼び、叶神社となったという。なぜ東と西があるのかは調べてもいまひとつ分からなかったが、東叶神社で勾玉を買って、西叶神社のお守り袋に入れると御利益があると言われている。一説によれば、浦賀は東西に分離した1600年代中期ごろに、西叶神社が創建されたと言われる。いずれにせよ、東叶神社の狛犬は両方とも「吽」、西叶神社は「阿」となっていることから、二社で一対になっていることは間違いない。


神社の裏山は明神山と呼ばれ、その山頂にはかつて浦賀城があった。浦賀城は北条水軍の根拠地だった城で、八犬伝でお馴染みの里見氏が三浦半島に攻めてくるのを防ぐために造ったらしい。

1725年からある浦賀の渡し船。この水路は市道として指定されている。

また、東叶神社には「勝海舟断食の碑」がある。勝海舟は船に弱く、長い船旅に不安を覚えていたらしい。そこで断食をして、海神である叶神社に祈念したのだという。僕が大変世話になっている某アウトドア誌の編集長も船に弱いらしく、カヌーに乗るのも不安を抱いていたが、それが1か月の船旅ともなれば断食までしたくなるのだろう。

そんな話をしておいて何だが、浦賀には1725年からあるという歴史ある渡し船がある。浦賀は奥が深くなっている入り江のため、グルッと回るよりも船で渡った方が早い。現在も愛宕丸という小さな船が湾内を往き来しており、この水路は市道2073号線に指定されている。

渡し船は150円を払うと誰でも乗せてくれる。渡し場に船がない場合は、チャイムのボタンを押せば、反対側からやって来てくれる。時間はわずか3分ほどの船旅だが、のんびりと浦賀湾を眺めながら進むのは何とものどかで、旅情に溢れている。

叶神社を参拝する場合は、西叶神社にクルマと駐めて渡し船で東叶神社に参詣するといい。ここが東京からわずか1時間ちょっとで来られる場所だということを忘れるほどのどかだ。

3度来ていたアメリカの軍艦 

ペリー記念館に展示されている、浦賀に来た東インド艦隊の想像模型。

浦賀からジムニーを5分ほど走らせると、久里浜という小さな町に出る。千葉県の金谷まで行く東京湾フェリーが出ている所だ。この久里浜に、大統領の親書を持ったマシュー・ペリー一行が上陸した。

意外と知られていないが、実はペリー以前にもアメリカの軍艦が日本に来ているのだ。ペリーと同じ東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルという人が1846年に帆船2隻で浦賀沖に訪れ開国を迫ったが、その時は幕府に拒否されてすごすごと帰っているのだ。これは歴史の授業でも出てこなかったと思う。

それから7年後の1853年、今度は4隻の軍艦でペリーが浦賀沖にやってきた。前回来た時と事情が大きく異なったのは、2隻の外輪船がいたことだ。いわゆる黒船である。当時の日本には、どこの国も蒸気機関を持った船などで来なかったから、相当なカルチャーショックだったのだろう。

黒船はそれぞれ帆船を一隻づつ曳航しながら、江戸湾を計量しつつ羽田沖まで入り込んでいった。途中、独立記念日などが重なったため、バンバン礼砲を撃ったらしい。最初は怯えていた日本人だが、そこは物見高い江戸っ子。まるで花火みたいだということで大砲を撃つたびに喜んだり、小舟を出して近くまで見物しに行ったというから、幕府の重臣たちよりも肝が据わっている。

ペリー公園にある上陸の碑。奥に見えるのは無料で入れるペリー記念館。

幕府は当初、浦賀奉行所与力の中島三郎助を乗船させたが、そんな木っ端役人には親書は渡せないと拒否され、結局は浦賀奉行が久里浜にて親書を受け取ることになる。「返事は1年後」ということでペリーは一度香港に戻った。ところが1年後ではなく、半年でまた浦賀に戻ってきたから幕府は慌てた。さすが外交巧者のアメリカである。前回の来航直後に将軍徳川家慶が死去したことを知り、国政が混乱しているドサクサにまぎれて条約を結ぼうとしたのである。

この時はなんと9隻に増えており、もう日本としてはどうにもならない状態に追い込まれたのかもしれない。今度は浦賀ではなく交渉の場を横浜に移し、1か月にわたって協議が繰り返された。

ちなみにこの時、日本側は昼食300人分を用意したらしいが、1人当たり50万円相当という非常にリッチなものだったようだ。だが、あっさりとして量が少ない和食をペリーはそんなに金がかかっているとは思わなかったようで、「もっといいものを隠していたはずだ」と後からぬかしていたようである。

結局、日本は不平等条約を結ばされるはめになったのはご存じの通りで、その後艦隊は下田に移動して条約を締結したのである。朝に横須賀でたくさんの米軍軍艦が停泊していたが、それから160年経った今でも、やはり不平等な状態は変わっていないんだなぁと何とも複雑な思いがする。

ということで、横須賀から久里浜へと時代を遡る探検をしてきた。浦賀が自然の良港であるゆえに東インド艦隊がやってきて、そこから日本は世界へと旅立っていくことになる。誠に不思議な運命を持つ土地、それが横須賀なのである。

ジムニーで走ってしまえば狭いエリアだが、自然が美しく見所も多い。日本は今、世界の中で非常に難しい立場になっているが、後進国でありながら志を持って近代化を進めていった日本人たちがいたことを、横須賀でもう一度思い出してほしい。

<文・写真/山崎友貴>

艦橋から見た三笠の後部。東郷平八郎と同じ光景を体験できる。
お龍の墓がある信楽寺。墓は誰でもお参りすることができる。
海舟が愛した鰻屋・梅本の店内。飾らない雰囲気がまたいい。
浦賀の外れにある燈明堂は江戸初期に造られた灯台。写真は復元したもの。
愛宕山公園にある咸臨丸出港の記念碑。
浦賀の渡しの前にあるカフェ時舟。テラスで浦賀湾を眺めながら、ノンアルコールビールなぞを楽しむ。
観音崎自然博物館の前にある大東亜戦争時のトーチカ。
三代目となる観音崎灯台。浦賀水道を一望できる。