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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.055
待ってました!成田や! [成田周辺]
待ってました!成田や! [成田周辺]

いきなりダジャレのタイトルで始まってしまった今回のジム探だが
成田屋こと市川團十郞でもおなじみの成田山が今回の探検のスタート。
今や名刹として全国の信仰を集めている成田山新勝寺だが
実はその成り立ちは結構コワイものだった...。
今回も寺あり、城あり、古墳ありとジム探ファン必見!

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平将門を呪詛するための寺・新勝寺

今年で開基1074年を迎える古刹、成田山新勝寺。平将門の乱をきっかけに造られた。

先日、河野隊長と話していたら「某誌の取材で成田山に行ったんですけど、すごく良かったですよぉ」と言う。写真を見せてもらったら、確かに惹かれる参道が続いている。これは負けてはいらないということで、早速ジムニーを成田市に走らせた。

成田山新勝寺と言えば、初詣や節分の豆まきなどでお馴染みだと思う。現在では庶民の信仰の場となっている古刹だが、その始まりはちょっと生臭いのをご存じだろうか。9世紀の終わり頃、日本の中心はもちろん京都・平安京だったが、関東地方は中央の経済を支える重要な穀倉地帯だった。同時に蝦夷から大和民族を守る前哨基地でもあったわけである。

この頃、独りの武士が都から東下する。平将門である。将門は坂東平氏の一族で、武芸には優れていたようだが政治力に劣っていたようで、都では自ら望む役職につけず、やむえず都落ちしたようだ。で、東国に戻ってみると、そこも坂東平氏やら源氏やら藤原氏やらが権力を争いをしている内乱の最中。まあ話を端折るが、戦上手の将門は関東を平定してしまったのである。

そこに都落ちしてきた皇族などがいたり、中央政権への不満やらがあって、将門は自らを「新皇」と称して東国を独立国家としてしまう。この平将門の乱の時に朝廷は寛朝大僧正を成田に送り、ここに不動明王を本尊とする寺を開山した。そしてそこで不動護摩を焚き、将門を封じ込める儀式を行ったのである。

つまり成田山新勝寺は、平将門を呪い殺すための寺だったのである。現代では価値観がわかりづらいが、平安時代は御仏の力は世界を左右するほどのものだったのだから、不動明王の力で将門を倒そうというのはごく当たり前だったのだろう。ちなみに我が家の先祖は平将門なため、ウチは成田山詣でをしたことがない。山崎家の歴史の中では、僕が久しぶり。いや、もしかすると初めて成田山に行った人間かもしれない。まあ、神田大明神にも大手町の首塚にも定期的に行っているので、一度くらいは問題ないと思いたい。

現在は広大な伽藍を持つ成田山新勝寺だが、戦国時代の動乱で江戸時代には寂れてしまっていたらしい。ところが坊さんにも商才のある人がいるもので、秘仏となっていた新勝寺の不動明王を江戸の寺に持っていき、そこで「出開帳」したことから成田山人気が復活。さらに初代市川團十郞が不動尊に詣ったことで息子を授かったことから、成田山に帰依して「成田屋」を名乗る。自らの歌舞伎で不動明王が登場する演目をかけたことから、江戸庶民の間で成田詣でがブームになっていったのである。

こうして現在の成田山に続いているわけだが、21世紀の新勝寺には外国からの客もいるなど、平将門の時代には考えられない景色になっている。探検に行ったのは9月上旬だったが、成田山では「正五九」と言って、正月、5月、9月にお参りすると他の月よりも御利益があるということになっていて、境内は平日にも関わらず人で賑わっていた。

何せひとつの山全体が伽藍なわけで、ちょっと散策するにも大変だ。また境内の北側には成田山公園が広がっており、こちらも見て回ると半日では済まなくなってくる。ちなみに成田山公園は意外な穴場スポットで、和洋それぞれの様式の庭園がある。どちらも庭園としてはなかなかのもので、日がな一日散歩するにはちょうどいい。また成田山周辺は駐車場料金が高めなので、成田山公園の駐車場に駐めると安く済む。公園を通って、裏から成田山詣でなんていうのもツウでいいのではないだろうか。

なぜ成田山は鰻が名物なのか?

成田山参道の朝は、鰻の串打ちで始まる。新鮮な鰻をその場で割き、若い職人たちが一心に鰻に串を打つ。

JR成田駅から成田山新勝寺まで、緩やかに坂を下るようにして長い参道が続いている。ここには参拝客の目を奪う様々な店が並んでいるが、寺に近づくほどなぜか鰻屋が多くなっていく。たしかにこの辺りは印旛沼に近いので、江戸期から盛んに鰻を食べたのであろうが、それにしても精進料理ならいざ知らず、鰻とは随分生臭くないだろうか。

そんな疑問に対しても、さすがは河野隊長、鰻を食べたついでにしっかりとリサーチしてきた。寺から南西のほう、ちょうど京成成田駅の脇に花崎町という一角がある。歩いてみると、古い家屋がぽつぽつと残っているのだが、元々ここは花咲町という色街があった場所だ。昔は寺町と色街というのは密接な関係があって、寺は収入を増やすための寺領を遊郭に貸すというビジネスが当たり前だった。上野の黒門町界隈の遊郭なぞは、寛永寺が積極的に貸していたという話だ。

ここまで書けば想像も付くと思うが、成田山詣でをして、鰻で精を付けて、そして花咲町に行くという男のオススメコースがあったわけである。ちなみに「成田山に男女で行くと、その二人は別れる」などというジンクスが未だに語られている。これは昔の旦那衆が奥方に「成田山に行きたい」と言われた時に、それを断るための口実に考えたと言われる。まあ、たしかに風俗店に行くのに女連れは厳しい。

成田山の参道に朝一番で行くと、各鰻店では日課の串打ちの風景が観られる。ベテランの職人がきれいな水の中を泳ぐ鰻をさっと割き、それに若い職人が串を打っていく。どの職人も真剣な面持ちで、一心不乱にその作業に没頭していく。「串打ち3年、割き5年、焼き一生」と謳われるように鰻職人の道は厳しい。

駿河屋の鰻丼(2200円)。10年前に鰻屋を始めた味とは思えない。

しかし、これだけたくさん鰻屋があるとどこに入っていいのか分からないので、一番門前に近い店に飛び込んでみた。駿河屋(するがや本店)は江戸時代から旅籠を営んでいる老舗だが、鉄道の発達で成田山詣でが日帰りでできるようになったことから、中食屋に鞍替えした。鰻専門店となったのは10年前のことのようで、古いような新しいような不思議な店だ。

ご存じの通り、鰻は高騰してなかなか手が出しにくくなってしまったが、駿河屋には2200円の鰻丼というリーズナブルなメニューがあった。待つこと30分。暖められた丼が運ばれてくる。早速、鰻を一口食べると、非常に美味! 白焼き、蒸し、たれ焼きという関東ではオーソドックな方法で焼かれる鰻はフワフワでパリッ。たれが甘めだが、その甘さが独特。甘いのだがサラッとしている。後から調べたら、タレに氷砂糖を使っているらしい。だからベタベタしないのだ。

偶然にも隊長も駿河屋の鰻を食べたらしい。他の鰻を食べていないので分からないが、迷ったら駿河屋の鰻をオススメしておく。その他、成田山の名物「はぐら瓜の鉄砲漬け」もオススメだ。瓜が嫌いな方は別だが、キュウリの漬け物とか好きなら、これは相当美味いと思う。また米屋(よねや)の羊羹も成田山名物だが、なかでも栗蒸し羊羹は成田山が発祥。新勝寺で食べられていた「栗羹」という精進料理にヒントを得て米屋が作ったんだとか。ちなみに日本で初めて缶入り羊羹を作ったのも米屋なんだとか。

想像以上のおもしろさ「房総のむら」

房総の古民家や商家が移築されている「房総のむら」。ロケにもよく使われている。

駿河屋で鰻を食べていたら、隣のおばさんの「房総のむらはおもしろかったわね」という会話が耳に飛び込んできた。たしかに成田周辺を走っていると、「房総のむら」という道路インデックスをよく見かけた。よくあるハコモノ行政だろと思ったのだが、おばさんがおもしろいという感覚は意外と間違っていない。なぜなら有閑マダムは目が肥えているからだ。

駿河屋や出た僕はジムニーに飛び乗り、早速次の目的地へと向かう。と、その途中であることに気づいた。成田の信号には、なぜか数字が振ってある。すべてではないのだが、丸く青い看板に数字が書いてあるのだ。この数字の意味は何のか? 成田山新勝寺を本拠地とする秘密結社の暗号なのか? すぐにネットで調べてみると、これは観光用らしい。例えば成田山に向かう観光バスの運転手に「〇番の信号を曲がって、その先にある駐車場に駐めて」とか、観光客に「ウチの店は〇番の交差点を右折してすぐの所です」とか、案内をしやすくするための番号なんだとか。

すっきりしたところで、再びジムニーを房総のむらに走らせる。成田山界隈の賑わいとはうって変わり、風景は急に田舎になってきた。こんな所におもしろいスポットがあるのか? いかにも行政が作りました的な色気のない看板を曲がると、総合運動公園のような駐車場に。ジムニーを駐めて、いよいよ入口へと進む。ここが噂の「房総のむら」。何と県立の施設だ。

園内には江戸時代の商家の街並みを再現したコーナーや、実際に千葉県内にあった武家屋敷、農家を移築しているコーナーがある。街並みのコーナーでは様々なことが体験できるイベントなども開催されていたりする。入場料は300円なので、まあリーズナブルと言える。

でもこれだけだと「房総のむらなんてそんなもんか」となるところだ。だが、この施設には簡単に再現できない、すごい歴史遺産があるのだ。ジム探・古墳ファンの皆様、お待たせいたしました。ここ房総のむらの半分は「風土記の丘」と呼ばれる龍角寺古墳群の保存地域になっているのだ。龍角寺古墳群はなんと114基の古墳で構成されており、そのほとんどが原形を留めている大変な場所だ。

しかも散歩道を歩きながら、78基もの古墳をそばで観察できる。ほとんどが円墳だが、前方後円墳が37基、方墳が6基ある。古代の人々が114人もこの地に眠っているかと思うと、ここがすごく特別な場所だったということだ。

風土記の丘にある114号古墳。周りの埴輪は当時を再現して置いたもの。

見所は岩屋古墳で、日本でも最大級の方墳だ。今頃は雑草ぼうぼうで、ぱっと見は工事残土を積んだ小山みたいに見えてしまうのだが、実は非常に貴重な歴史遺産なのだ。

でも僕的には小さな円墳が肩を寄せ合って並んでいるエリアが好きだ。でかい古墳とは違い、とりあえず小さい古墳くらいしか作れない下層豪族の悲哀のようなものを感じるからだ。それでも、こんなに立派な墓で2000年近く経っても残っているのだから、それはそれで幸せだと思うが。

これら古墳は6世紀後半、古墳時代の終わり頃に造られたと見られている。6世紀半ばには仏教が日本に伝来し、埋葬方法も徐々に変わっていくわけで、実際に7世紀初頭には近くに龍角寺が建立されている。そうした歴史的背景を考えると、益々この古墳群は興味深いものに見えてくるはずだ。

風土記の丘には、ここで出土した埴輪などを展示した資料館もあり、成田周辺の歴史・文化や房総半島のなりたちなどを知ることができる。かなり駆け足で園内を廻ったのでじっくり観ることができずに残念だったが、これから紅葉のシーズンになると房総のむらもきっと美しいはずだ。

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佐倉にある「順天堂記念館」。東京・御茶ノ水にある順天堂大学の源流だ。