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12.07.25

【Vol.2-1】日本再発見ジムニー探検隊>>品川宿

日本の楽しさを再発見するために、日夜日本各地を探検しているジムニー探検隊。
第二回目は、東海道五十三次の宿場町として栄えた品川宿の現代へGo!
変貌と江戸の残り香が混じるかつての宿場町は
誰もが知っている歴史と、意外と知られていない"トリビア"でいっぱいだった!

写真をクリックすると、拡大&情報が見られます

ゴジラから幕末の志士まで品川宿はディープエリア!

JR東海道線などと交差する京急線の鉄橋「八ツ山橋」。ここからゴジラは上陸した…ことになっている。

かつては高級ホテルエリア、いまは新シーフロント。これが東京・品川の現代のイメージだと思う。駅を出ると、南口も北口も華やかでかつての品川を伺い知ることはできない。現代において「品川=海辺」と考える人はまずいない。ところが品川は、昭和初期までまさに海沿いの場所だった。

明治半ば、当時の東京市は東京湾に大型の船舶を入港させるため、隅田川下流域を中心に水深を深くする工事を計画した。この時に発生する泥土を埋め立てに使うということになり、これが品川から羽田の埋め立て地造成に発展したらしい。

品川沖は昭和2年から埋め立てが開始されたというので、今のような景色になったのはそんなに昔ではないということになる。たしかに1954年に公開された映画「ゴジラ」では、まだ品川はそれほど埋め立てられていないように見える。余談だが、映画の中でゴジラが東京に上陸した場所「八ツ山橋」が、今回の目的地の品川宿の入り口になる。

話を戻すが、かつての品川は風光明媚な海沿いの町だった。そして江戸時代までは、東海道五十三次を代表する大きな宿場町「品川宿」だったのである。日本橋から数えてひとつ目、さほど距離の離れていない品川宿だが江戸の人々には欠かせない場所だったようだ。

京都から“下って”きた人は江戸市中に入る前にわざわざここで一泊して身綺麗になってから市中に入ったというから、昔の人は実に粋だったわけだ。逆に江戸に住む人々にとっては、品川は泊まりで行く歓楽街だった。「土蔵相模」など、旅籠とも遊郭ともつかない店が並び、江戸っ子の粋を満足させていたのだ。ちなみに新橋愛宕山下や上野山下、谷中、内藤新宿(今の新宿2丁目、3丁目あたり)などには飯盛り女や茶屋女に春を売らせる店が並んだとかで、もっぱらお上も目をつぶった半公認の風俗エリアが江戸には多かったようだ。

当時の品川宿の風俗は、映画「幕末太陽傳」に詳しいので、時間のある方はぜひご覧いただければと思う。この映画の舞台も土蔵相模になっている。

品川浦の船だまり。対岸には大正時代に建てられた住宅が何軒か残る。

安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」は多くの方がご存じだと思う。ちなみに僕は某お茶漬けのオマケでしか見たことがないけど。そこに描かれた品川宿には、本当に驚かされる。現代だと漁村の風景だ。今回の探検をレポートするにあたり、皆さんにはこの風景を頭に残していただきながら読んでいただけるといいかもしれない。(後編文末の品川宿探検ギャラリーに収録)

さてかつての品川宿は、現在の京急北品川駅付近から始まっていた。国道15号線で大森方面に向かい、品川駅前を通過して御殿山のあたりに差し掛かると、先ほどご紹介した八ツ山橋で左に国道から外れることができる。左にそれるとすぐに京急の踏切があるが、ちょうどその辺から旧東海道というわけだ。

浮世絵の右に書かれた山は御殿山の麓のようなので、ちょうど踏切を渡ったあたりが浮世絵の場所ということになる。御殿山は国道15号を通す時に造成されてしまい、現在ではこのような地形ではない。まあ、どこにでもある町の商店街の景色が続いている。

この地域の旧東海道は、北品川から鈴ヶ森刑場跡まで約4kmほど続く。商店街を走り続けると鈴ヶ森刑場跡に抜けられるが、ジムニー探検隊としてはあちこち寄り道をしていきたい。

北品川駅の商店街から1本左手にそれると広い道路「八ツ山通り」があり、その左手には水辺の景色が広がる。船宿が建ち並ぶ、なかなかの情緒の場所だ。地元では「品川浦船だまり」と呼ばれているが、橋を渡って船宿がある場所こそ埋め立てられた地域だ。

実はこの地域は昭和ではなく江戸時代に埋め立てられた場所で、当時は「利田(かがた)新地」と呼ばれていた。新田開発の一端だったのだろうが、幕末の安政に入ると黒船対策用の「御殿山下御砲台場」になってしまう。お台場にある砲台も含めて、品川沖にはいくつもの黒船撃退用陣地が造られた。ちなみにGoogleアースかマップで「台場小学校」を見ると、ちょうど台場の形になっていておもしろい。

この黒船来襲という幕末を象徴する事件によって、ここ品川宿では多くの人が知る幕末の有名人たちが交差していくのである。坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、近藤勇、土方歳三などなど多くがその足跡を品川に残していった。

思わずうなるB級スポットが目白押し

いまマンションが建つ旅籠「土蔵相模」の跡地。江戸っ子に愛された名旅館だった。

何せ400年にわたり存在した地域だけに、品川宿近辺にはB級の歴史スポットがたくさんあっておもしろい。前述の通り、幕末の有名人たちも多く品川宿を訪れ、場所から当時に思いを巡らせることができる。

例えば先ほどもご紹介した「土蔵相模」。幕末、長州藩(山口県)は攘夷論の急先鋒であり、中でも吉田松陰をはじめとする松下村塾一門が藩論に大きな影響を与えていたと言われる。一門の顔ぶれを見ると、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、井上聞多など、司馬遼太郎の小説でお馴染みの面々ばかりだ。

そんな彼らが江戸留学中に攘夷実行のひとつとして、品川にあった英国公使館の焼き討ちを行う。その時、この土蔵相模という旅籠で計画を立てて、焼き討ちの準備を行ったらしい。まあ平たく言えば、過激派のアジトだったわけだ。土蔵相模は外観が土蔵造りだったことからその名が付き、昭和初期までその外観だったらしい。その後、「さがみホテル」としてリニューアルオープンしたが、戦後の売春防止法の施行によってその歴史を終えた。

土蔵相模から2kmほど離れた場所にあった「旅籠屋釜屋」は、新選組の定宿として知られている。そもそも釜屋は、江戸幕府の中級下級役人御用達の宿だった。現代で言うとルートインとか東横インみたいなもんだろう。そんなことから、新選組の隊士も京都から江戸に下向する際に、ちょくちょく使っていたようだ。新選組は「鳥羽伏見の戦い」に敗れて大阪城に逃げ、さらに天保山沖から軍艦で江戸に逃げ帰るのだが、その時にも品川に上陸して釜屋で再起の計画を練ったという話が伝わる。

いまではどちらも跡形もないが、奇しくも倒幕佐幕の急先鋒の面々が同じ品川にいたと思うと興味をそそられる。この他にも品川には幕末のゆかりのスポットが多いのだが、それは後ほどご紹介しようと思う。

B級スポットの代表例が「鯨塚」だ。利田新地内にある利田神社の境内にあるのだが、富士山みたいな石碑がぽつんと置いてある。その横の品川浦公園には、どう考えても税金の無駄使いと思えるクジラのオブジェがあり、やたらクジラをアピールしている。

実は1798年の品川浦に、暴風雨で迷った巨大な一頭の巨大クジラが入り込んだ。この地にいた漁師たちはクジラなんて生物を見たことがなく、当然捕り方も知らなかった。しかし、ここで諦めては名が廃る…ということで、てんやわんやの末に見事クジラを仕留めたらしい。それが江戸中の話題になり、当時の将軍徳川家斉なぞは「俺も見てえ!」と言って、わざわざ浜御殿(浜離宮)まで捕ったクジラを船で運ばせたという記録が残っている。で、漁師にはゴールドラッシュみたいなもので肉や脂、骨、ヒゲなど使えるものは全部いただいて、残った骨を埋めたのがこの鯨塚なんだとか。

鯨塚からほど近い東海道沿いには、「問答河岸」跡の柱が立っている。そもそも八ツ山橋付近には、地元漁師が水揚げした魚を売っていた河岸があった。この河岸で、宮本武蔵の師匠として有名な沢庵和尚と三代将軍徳川家光が問答をした場所ということで、その名が残ったらしい。ちなみに沢庵和尚は家光の招聘で品川宿の近くに東海寺という寺を建立し、住職になったという間柄だ。

問答というさぞ難しい禅問答でもしたのだろうと想像していたのだが、調べたら当時の記録が残っていた。

家光:海近くして、いかがこれ東(遠)海寺や?

沢庵:大軍指揮しても、将(小)軍というが如し

ダジャレやんっ。この他にも、日本各地のその漆喰彫刻が残っている「伊豆の長八」こと入江長八の作品や、パリ万博やウイーン万博に出品された品川寺の梵鐘やら、何だか面白いものが目白押しだ。写真はパート2文末の「品川宿探検ギャラリー」でまとめてご紹介するので、良かったらご笑覧いただきたい。

ジムニーの機動力で思わぬ珍発見

かつてこの辺が海だった名残の“岸壁跡”。いまでは普通に住宅街の裏道だ。

品川宿の探検をしていて、かつてこれほど「ジムニーって素敵」と感じたことはない。というのも、旧東海道は整備された近代的な商店街だが、一歩外れると恐ろしく狭い裏路地ばかりなのである。ミラーぎりぎりの道幅を攻めて、それを直角に曲がり、道を間違ったらバックして戻る…。もはやこれはジムニーというサイズと掴みやすい車両感覚、そしてクロカン走行で培ったギリギリ走行のテクニックなくしてありえない。

テクに自信のない方は、旧東海道沿いにコインパーキングがいくつもあるのでそこに駐車して、あとは徒歩で探検することをおすすめしたい。と言いつつも、僕は楽しいのでそのままジムニーでどんどん入り込んでしまった。明らかに住人には嫌がられたが、そのお陰でおもしろいものを見つけた。それが、この写真の場所。

どう見ても古いコンクリの石段にしか見えないだろう。ところが、この石段はただの小汚い石段とはちょっと違う。実はこれ、昭和初期に埋め立てられるまでは岸壁だったのである。つまり、いまジムニーが写っている(というか走っている)道は海だったというわけ。写真右手にはマンションが建ち並び、とても海だったとは想像できない場所だ。

京急新馬場駅のホーム。2つの駅の間に作ったものだから、やたらに長い。

裏路地をグルグル回っていたら、突然京急の駅に出た。北品川と青物横丁の間にある「新馬場駅」だ。やたらホームが長い駅なのだが、実はここもいわく付きの場所。かつてここには「南馬場」と「北馬場」という2つの駅があった。ところが1975年から高架工事がはじまり、これに伴い2つの駅を統合しようということでできたのだ「新馬場」。

ところが工事が完了した下り線を先に統合してしてしまったものだから、何ともややこしい話になった。上り側の駅はまだ別々なのに、下りは一緒のホームになってしまったのである。統合された下りホームには北馬場・南馬場と併記され、便宜上で北口が北馬場駅、南口は南馬場駅という状態がしばらく続いたんだとか。おかしなエピソードが残されている駅も、いかにも品川宿っぽいではないか。
<続く>

京急北品川駅

京急北品川駅
かつての品川宿は現在の京急北品川駅付近から始まっていた。国道15号線で大森方面に向かい、品川駅前を通過して御殿山のあたりに差し掛かると、八ツ山橋で左に国道から外れることができる。左にそれるとすぐに京急の踏切があるが、ちょうどその辺から旧東海道というわけだ。

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