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12.11.26

【Vol6-1】日本再発見ジムニー探検隊>>東京都新選組ロードを行く

歴史ファンの中には、特に幕末が好きという人が多い。
幕末と言えば坂本龍馬や西郷隆盛が有名だが、
最後まで幕府方として戦った「新選組」の人気も侮れない。
今回の旅は東京に埋もれた新選組の史跡を巡る。

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美形の剣士・沖田総司最後の地とは

六本木ヒルズ裏手にある専称寺。沖田家の菩提寺だ。

幕末の志士と言えばやはり坂本龍馬が人気だが、そのカウンターパートとして多くの歴史ファンを魅了しているのが「新選組」だ。新選組とは何か、を簡単に説明しておこう。幕末の京都は、外国勢を打ち破って独自の国内政治を推し進めようという“攘夷派”と、幕府大老・井伊直弼の開国政策を支持する“開国派”が入り乱れ、混沌とした状態になっていた。後に攘夷派と開国派は、天皇を中心とした国体を実現しようとする“尊皇派”と、幕府政治を継続させようとする“佐幕派”に移行していく。

この二派は熾烈な権力争いを展開し、水面下で暗殺などのテロ行為を頻発させた。そのため京都の治安は著しく悪化し、とても日本の首都とは思えない状態になってしまったのである。そこで会津藩が京都の治安維持を命じられたのだが、この京都守護職の傘下にあったのが新選組だ。新選組は元々、京都の警護のために幕府に集められた「浪士組」から分裂したもの。

浪士組は江戸で集められた浪人たちの集団で、平たく言えば職にあぶれた武士や得たいの知れない連中の集まり。清川八郎という武士が、京都に上洛する徳川家茂を守るという名目で幕府に掛け合い浪士組を結成した。ところが清川八郎は尊皇攘夷派で、京都に着くとすぐに反幕府として活動すると翻る。それに反発したのが芹沢鴨を筆頭とする水戸藩浪士と、近藤勇を筆頭とする江戸・試衛館道場門人たちだった。そしてこのメンバーが、会津藩に後ろ盾となってもらい新選組を結成するのである。

で、彼らが何をやったのかというと、平たく言えば傭兵&私設警察。会津藩から給料をもらって京都の町を見回りし、怪しいヤツがいたら捕まえたり斬ったりしていた。やり方があまりに激しいので暗殺集団と考えられている節もあるが、まあ当時は尊皇攘夷派も相当アグレッシブだったので「目には目を」ということだ。新選組にはドロドロとした内部抗争の歴史があり、これがまた面白いのだが、それはまたの機会に。

屋根の下にあるのが沖田総司の墓石。墓地内に入ることはできないが、道から遠目に見ることができる。

さて、最初に訪れるスポットはいきなりクライマックスだが、新選組一番隊長の沖田総司の墓だ。沖田総司と言えば、秀眉美麗な剣士として巷の女子に人気がある。だがこれは漫画やドラマで美丈夫に描かれたからであり、子母澤寛の「新選組始末記」によれば、実際は背が高く色黒なヒラメ顔の男でそれほどイケメンではなかったらしい。沖田は写真が残っていないので証言に頼るしかないが、カッコよければ「ひどくいい男だった」と言われているはずだ。

六本木のテレ朝通りを中国大使館の方に走ると、左手に「専称寺」という寺がある。ここに沖田総司の墓がある。墓所は通りから路地を入って少し歩いた所にあるのだが、ファンが墓石を削ったりして荒らしてしまったようで、随分前から立ち入ることはできない。年に一度、同好会が開催している「沖田総司忌(6月30日)」のみ、主催者許可で間近に見ることができる。だが、沖田の墓は路地から遠目からだが見ることができる。小さな屋根の付いた墓が沖田のもので、手前が沖田家代々の墓なんだとか。

今は墓碑銘が削られてよく分からないのだが、戒名は「賢光院仁誉明道居士」。この墓碑は後から建てたものとも言われ、初めは姉ミツが新政府の目を逃れるために、戒名だけを書いた小さな墓を建てたという。現在の六本木は繁華街なので“目立ちそうな所に墓がある”と思う向きもあるだろうが、当時の六本木は寺町。無数の寺と墓があったので、その中に墓を作ってもそうそうは見つからなかったのであろう。

新選組隊士たち青春の地

さて、次に向かったのは市ヶ谷柳町。都営大江戸線の牛込柳町駅の近くで、町名は「市ヶ谷柳町」。ここに新選組のルーツである試衛館道場があった。試衛館は天然理心流という流派で、近藤勇が館主を務めた道場である。天然理心流で教えたのは剣術に加え、居合や柔術、棒術など何でもありの総合武術で、かなり実戦的だったようだ。とは言え、当時の江戸では「技は千葉(北辰一刀流)、力は斉藤(神道無念流)、位は桃井(鏡神明智流)」と言われて、玄武館、練兵館、士学館が三大人気道場であり、試衛館などはほぼ無名の道場だった。

すっかり平和になってしまった幕末、剣術は型を重視したスマートなものが流行し、質実剛健で野暮ったい実戦向き剣術の天然理心流は人気がなかったようだ。天然理心流は創設以来、多摩や武州などの農民に門人が多かった。農村部で押し込みなどが横行して物騒だった当時、護身術として剣術を学ぶものが多かったのである。

さて江戸時代の市ヶ谷柳町には、甲良屋敷という町屋があった。甲良屋敷は幕府大棟梁・甲良氏が幕府より拝領した土地に町屋を建てたもので、賑やかな商店街があったという。1839年に近藤勇の義父である周助が、この地に道場を建てたのが試衛館の由来だ。北側は旗本屋敷、南側は御手先組同心の屋敷があったという。ちなみに御手先組同心の頭領というのが、「鬼平犯科帳」でお馴染みの火付盗賊改方の長官だった。長谷川平蔵も御手先組同心の頭領だったのである。町奉行傘下である町与力や町同心よりも、やり方が相当荒っぽかったようだ。新選組のやり方もアグレッシブだったのは、試衛館がこの屋敷のそばにあったため、もしかすると厳しい詮議を見たのかもしれない。

この稲荷神社の左手に試衛館道場があったと言われている。稲荷神社は350年続く歴史あるものだ。

いまはマンションばかりの住宅街、その一角にひっそりと「試衛館跡」の碑が立つ。かつては道沿いにあったのだが、マンションの建築に伴い稲荷神社のほうに移動した。場所を見つけるのが大変なくらいだ。試衛館は多摩地区の豪農のバックアップを受けていたものの、多くの食客を抱えて財政は火の車だったようだ。だが近藤勇という人は男気が強かったようで、次々と食客がやってきても嫌な顔もせずに面倒をみていたらしい。

だが、その食客の中に山南敬介や永倉新八、原田左之助、藤堂平助といった将来の新選組の中核となる面子が多数いたのである。新選組隊士で生粋の門人と言えば、土方、沖田、井上源三郎くらいなもので、後はみな食客だったのだ。

今は稲荷神社の小さな社が残るのみだが、近藤勇を筆頭にそのほとんどが農民上がりか下級武士だった試衛館の面々がいつか仕官する日を夢見たのがこの地だった。まさに兵どもが夢の跡、である。

孤高の剣士・沖田総司の終焉

新宿御苑裏手にある池尻橋。昔は外苑西通りを横断するようにかかっていたらしい。

前段でも少し触れたが、新選組隊士で女性に一番人気があるのが沖田総司であろう。美男子のイメージが強い沖田総司だが、近藤勇や土方歳三とは異なり写真が一切残っていない。歴史ファンの間で有名なイラストは、姉と義兄の子どもの次男をモデルにしたという“西郷隆盛式”である。それを見るかぎりでは“美男子か?”と思わざるをえない。背が非常に高く、いつも冗談ばかりを言うような青年だったと記録に残っている。暇さえあれば子どもと遊ぶような面を見せる一方で、稽古では非常に粗雑かつ乱暴で門人たちには人気がなかったようだ。

沖田総司と言えば、やはり胸の病で咳き込んでいる…というイメージだ。「新選組始末記」など過去の説では、新選組を一気にメジャーにした「池田屋事件」で沖田の病は発症し、その後は現場から退いたとされてきた。しかし最近の研究では、蛤御門の変でも出動していたし、その後も活動していたことが分かっている。また江戸に戻り、甲陽鎮撫隊として甲府に向かった一行の中に沖田がいたという説もある。

ただし慶応3年の暮れ頃には誰の目にもわかる程の病状だったようだ。発病後は新選組の支持者であった幕府典医・松本良順の元で療養したようだが、その後には2つの説がある。松本良順の別宅兼診療所だった現在の浅草・今戸神社で療養を続け、そこで亡くなったという説。そしてもうひとつは、千駄ヶ谷池尻橋にあった植木屋植甚の離れで療養し、そこで亡くなったという説。

今戸神社では堂々と「沖田総司終焉の地」を謳っているが、僕は千駄ヶ谷が濃厚だと思っている。なぜなら沖田の病状が悪化したとされる慶応3年ごろ、近藤勇の妻つねと娘瓊子(たまこ)が中野・成願寺に住んでいたからである。つねの言葉では、沖田は駕籠で何度も成願寺を訪れて何日か滞留したらしい。その時、喀血をしたとも言っている。成願寺は中野坂上駅近くの山手通り沿いにあり、千駄ヶ谷の植甚とは一里ほどしか離れていない。一方の今戸神社とは四里も離れており、いくら駕籠とは言え重病人がちょくちょくと往復できる距離ではないからだ。

植尽の屋敷があった場所は、いまはマンションが建つ。沖田がいた離れはどの辺りだったのだろうか。

ということで、ジムニーを一路千駄ヶ谷方面に走らせる。外苑東通りからR20に入り、今度は外苑西通を左折。スズキの東京支社の前を抜けて緩い右カーブが見えたら、その辺りが植甚こと柴田平五郎の屋敷があった辺りだ。池尻橋という小さな橋の欄干がいまも残っている。池尻橋は沖田が静養した頃にもあり、その川には水車小屋があったという。今の池尻橋は当時とは若干異なる位置にあり、川もない。橋の下には空き地が残り、そこにかつての川の名残を感じるくらいだ。

千駄ヶ谷は江戸城からさほど離れていないが、当時は随分と鄙びた場所だったようだ。一面に萱野原が広がり、一日で千駄(荷の単位で一駄は約350kg)
の萱が穫れたから千駄ヶ谷という地名になったらしい。子母澤寛「新選組異聞」によれば、沖田がいた離れは広々とした畑と田んぼに囲まれていたとあり、健康であればのんびりとした平和な生活というものであっただろう。身の回りの世話をする通いの老婆が一人いたようだが、都で死線をくぐりながらの人生を送ってきた彼にとっては寂しい日々だったに違いない。病の身をおして近藤の妻子の元を何度も訪れたことを考えると、孤独であったのだろう。

沖田総司は慶応4年5月30日に亡くなった。近藤勇が板橋刑場で官軍に斬首されてから二か月後のことだった。沖田は近藤の死を知らないまま、その身を案じ続けて死んだという。

Vol.6-2へつづく...

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