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13.02.25

【Vol9-1】日本再発見ジムニー探検隊>>甲州古道を走る

まだまだ見知らぬ日本の楽しさを発見する「ジム探」。
今回のテーマは、旧甲州街道を探すドライブだ。
江戸時代に諏訪と日本橋を結ぶ街道として整備された甲州道。
いまは国道20号として知られるが、実はそれは別な道だった!

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徳川家康の逃げ道だった甲州街道

明治・大正・昭和期に賑わった横山町の花街。今は昔の面影がわずかに残る。

江戸期の五街道と言えば、東海道、日光街道、奥州道、中山道、そして甲州街道だ。関東近郊にお住まいの方なら、一度は通ったことがあろう基幹道路である。僕なぞは家が近いため、1週間に数回はお世話になっている道だ。

甲州街道は日本橋から諏訪を結ぶ街道で、今は国道20号線と呼ばれている。江戸初期は「甲州海道」、江戸中期からは「甲州道中」と次々に名前を変えたのは意外と知られていない。

甲州街道は徳川家康が整備したのだが、その前から武田信玄なども軍道として整備していたようだ。だが、家康が関所や宿場の設置を法律によって定め、全国を支配するための道に変えたのである。

ちなみに家康は、もし江戸が有事で逃げ落ちる時に、江戸城半蔵門から服部半蔵の手引きで八王子まで行き、そこからは八王子千人同心(詳細は後述)の先導で天領の甲府まで逃げるという計画を立てていたという。つまり、甲州街道は家康の逃げ道だったのである。

五街道とは言ったものの、かつての甲州街道は東海道や中山道などと比べると非常に閑散とした街道だったようだ。この道を使って参勤交代をしたのは信濃高遠藩、高島藩、そして飯田藩の三家のみ。甲州街道は内藤新宿を皮切りに38もの宿場があったが、宿場と宿場の距離が非常に短い。他の街道に比べると宿場ひとつに対して旅籠の数が少なかったらしく、八王子宿から西側は旅籠のクオリティもあまり良くなかったようだ。

甲州街道の旅籠は地元の農家が兼業でやることが多かった。小仏峠以西の農家はその地形から耕作面積が少なく、養蚕などを行っていたもののあまり裕福ではなかったようだ。そんな農家が兼業している旅籠だから、微妙だったのかもしれない。当時の記録にも「甲州街道はどこに泊まってもほこり臭い宿ばかりだった…」と書き残されている。

僕が甲州街道に興味を持ったのは、府中界隈の「旧甲州街道」を通った際に、何だか町並みが良かったからだ。いかにも街道の残り香が漂っており、興味をそそられた。しかも現在の甲州街道のほとんどは明治以降に車両(馬車)用に整備された「川辺通り」という新道であり、元祖甲州街道は別にあると知ったからだ。いまの甲州街道はほんの一部が重複しているだけで、ほとんどが別なルートなのである。

八王子市追分交差点にある八王子千人同心屋敷跡の碑。有事にはここで江戸の防衛を行った。

さて、今回の探検のスタートは八王子。八王子はかつて横山宿と言った。八王子という地名は、徳川以前の北条氏時代に深沢山に牛頭天王の8人の王子である「八王子権現」を祀っていたことに由来する。

八王子はひとつの宿場としてカウントされているが、現在の横山町付近を中心に何町もつらなる巨大な宿場町ができ、八王子十五宿と呼ばれた。横山町が中心だったために、横山宿と呼ばれることが多かった。

横山町は八王子駅北口の甲州街道沿いの町で、現在も同じ町名で残る。甲州街道から一歩入った中町黒塀と言われる界隈には花街の名残があった。かつて八王子は繊維の町として栄え、大正から昭和までは花街も賑わったらしい。

スタートしてすぐ、八王子の町外れとなる追分交差点で甲州街道は陣馬街道と分かれる。この辺りに「八王子千人同心」の屋敷があったという。八王子千人同心は江戸を守るために配置された防衛組織で、武田家の遺臣を中心に豪農や地侍で構成された。いざという時は小仏峠の守備を行い、平時は甲斐国に絹や綿を仕入れに行って、それを江戸で売る行商を行っていた。

江戸中期の泰平の世になると八王子の防衛の必要がなくなり、日光東照宮を守る日光勤番に当てられた。幕末には一部が北海道勇払に移住し、苫小牧の基盤を造ったという。

小仏峠はやっぱり難関だった

国指定の史跡になっている小仏関所跡。手形をのせた石が残っている。

追分を過ぎ、ルートは高尾駅まで国道20号を進む。一部旧街道が住宅街を通っているが、1kmにも満たないのでここはパスすることにした。高尾駅を通り過ぎ、1kmも走った所、西浅川の信号で国道20号から右に逸れる。都道512号と名付けられた道はいきなり細くなり、閑静な住宅街を進む。この道が甲州古道であり、箱根と並んで関東の要所であった小仏の関所に向かう道だ。

多くの旧街道がそうであるように、道沿いに並ぶ家々はどこから昔の香りを残した造りが多い。その家を見て「ああ、ここは街道だったんだ」と理解する。都道516号に入ってから1kmも行かないうちに、右手に小仏関跡が見える。ここで江戸に入る「入り鉄砲、出女」をチェックしていたわけだ。

今は公園になっている関所跡だが、北条氏の時代は小仏峠にあったらしい。だが、役人などの便を考えて、跡地がある駒木野宿に江戸時代に移されたようだ。そこから数km走り、JRのトンネルを越えた辺りが小仏宿になる。近所に数件家があるひっそりとした集落で、今となっては宿場の名残もない。

わずか数km走っただけでかなりの数の神社仏閣に出会う。そもそも街道筋には神社仏閣が多く造られている。なぜかというと、戦になった時に寺院は要塞にしやすいからだ。幕府は民の往来の便を図って街道を整備したわけではなく、あくまでも基本は幕府の軍事・政治・経済のためなのである。

宿場を整備したのも、やはり政治主体であった。武士の宿泊はもちろんのこと、連絡通信網・流通の拠点であり、有事の際は砦になる。今度、どこかの宿場を通った時にチェックしていただきたいのだが、ほとんどの宿場は坂道に造られている。さらに道路整備がされてしまった所は除いて、必ず宿場のどこかで鍵型のクランクになっている。これは軍勢がさっと通れないようにする仕掛けだ。

小仏峠は歩行者のみ通行可能。きっと、新宿から諏訪までこんな感じだったのだろう。

さて、いよいよ小仏峠越えと盛り上がっていたら、何と無情にもジムニーの行く手にゲートが…。ここは陣馬山から高尾山に縦走する東海自然歩道の枝道になっているため、クルマの通行ができないのである。これはちょっと予想外の事態だ。

ちなみにかつて東海自然歩道を歩いた時に小仏峠を通ったのだが、森の中にちょっとした広場があり、石碑や石仏が並んでいた。おそらく、この付近に旧関所があったのだろう。

行き止まりは旧街道をドライブする上で必至なので、ここは潔く諦めて西浅川まで戻ることにした。朝から降っていた雨はみぞれに変わり、しかも戻らなくてならないのは何とも侘びしい。

国道20号線まで戻り、大垂水峠を越える。明治になり近代化が進むと、小仏峠越えは車両には難関であった。それ故に、旧街道から大垂水峠を越えるルートに太政官令で変更されたのである。

かつて週末の夜ともなればローリング族で賑わった大垂水峠だが、今はラブホが数件と潰れたドライブインがあるだけの寂しい山道だ。

ジムニーでのんびりと峠を越えると、人造ダム湖である相模湖が見えてくる。もちろん江戸当時は相模湖は存在しない。相模湖が完成したのは1947年で、戦後にできた日本初の人造湖なんだとか。

小仏峠を越えた旧街道は底沢バス停付近で国道20号線と合流し、すぐに小原宿へと入るのである。

各所に残る甲州古道の名残

小原宿の本陣跡。何とか未来永劫残ってほしいものである。

現在の相模湖町、かつて小原宿と呼ばれた所には本陣が残っている。本陣とは大名や幕府の高官が宿泊する施設だ。本陣専用の建物もあるが、多くは宿場名主の家を本陣として使った。

余談だが、大名行列と言えば「下に〜下に〜」と先手が声を上げて、民衆はひれ伏すというイメージを多くの人は持っていると思う。そもそも「下に〜」と露払いできるのは尾張と紀州の御三家だけであった(水戸は江戸常駐)。後の大名は「片寄れ〜」とか「よけろ〜」とか声をかけていたらしい。そして、民衆は土下座なんてする必要はなく、ただ脇に寄ればよかった。閑話休題。

さて神奈川県内には甲州街道、東海道併せて26の宿場があったらしいが、本陣が残るのはこの小原宿だけだという。本陣は小原宿の名主であった清水家のもので、大名が参勤交代でやってきた時は本陣として使わせた。

無料で見学できるので、河野隊長と嬉々として中に入ってみる。立派な玄関は大名専用なので、我々庶民は脇の勝手から中に入る。愛想のいいおじさんが「自由にどうぞ」と言うので、遠慮なく大名の居室に向かった。大名の居室である「上段の間」は、さすがいい場所にあった。前は遠州流っぽい枯山水が広がっており、とても田舎の家とは思えない。ここで日がな一日、酒でも呑んで過ごしてみたいものだ。

雪隠も大名専用だとかで、今も当時のまま残っている。よく時代劇などに出てくるが、畳敷きという豪華さだ。穴の下の砂箱も残っている。この本陣は幕末に建てられたらしく、明治に入ると清水家が普通に農家として住んでいたという。二階ではどこの農家もそうであったように、養蚕が行われていた。

かつて「新選組ロード」の回で訪れた日野宿の本陣も立派だったが、ここも相当立派な造りだ。数年前に清水家より相模湖町に寄贈され、以来町で管理しているという。本陣と言っても、甲州道中を通る大名は三家のみで、しかも各藩が年に一度しか泊まらないわけだから、一年で3回しか使われないわけである。それを常に綺麗に管理しなければいけないわけだから、何とも大変なハナシだ。

与瀬宿と吉野宿の間の古道を走る。ジムニー的には盛り上がる場所だ。

そこから数km西に行った隣の与瀬宿も小原宿と並んで大きかったようだが、今は本陣跡の碑と聖跡が残っているくらいだ。甲州街道上には多くの聖跡が残されているが、これは明治13年に明治天皇が民情視察の目的で京都まで行幸した時のものだ。

いろいろな所で小休したようだが、儀装車(馬車)で揺られながら遙か遠くの京都まで旅をしたのだから、年がら年中休みたくもなるだろう。当時の世情を鑑みれば、突然来られた方は迷惑どころか大層名誉なことだったに違いない。

与瀬宿には與瀬(よせ)神社という社があるが、ここの祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)だ。実は甲州街道沿いには日本武尊にまつわる神社や場所が多い。甲府には古事記や日本書紀にも登場する日本武尊東征伝説の地「酒折宮」がある。日本書記では酒折宮に滞在した後、武蔵国へ行ったと記述があるが、その時に甲州古道を通ったという説がある。

実はこの甲州古道とは、今回探検している甲州街道ではなく、酒折宮から東京府中までを大菩薩峠を越えて秋山川沿いに通っていた古甲州道のことなのである。この道は大化の改新の頃に開通してらしい。そもそも日本武尊は作り話と言われているが、古事記や日本書紀の編纂者が東征で通った道の話を創るのに、古甲州道を通ったことにしたのであろう。それが後世になって甲州街道を通ったと混同したのかもしれない。

<2につづく…>

小原宿本陣

小原宿本陣
相模原市緑区小原698-1

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