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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.015
池波正太郎流をたしなむ
池波正太郎流をたしなむ

2013年第1回目の日本再発見ジムニー探検隊は
昭和の時代劇作家・池波正太郎のライフスタイルをなぞるドライブに出かける。
作家としてだけでなく、大人の男の流儀を教えてくれた池波正太郎。
その粋な世界観の一部をご紹介しよう。

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粋な大人を体現した池波正太郎という生き方

池波正太郎記念文庫には同氏にまつわる様々な展示品がある。

作品を読んだことがなくても、作家・池波正太郎の名前を知らない人はまずいないと思う。言わずと知れた時代劇作家である。「鬼平犯科帳」や「剣客商売」、「仕置人・藤枝梅安」など、娯楽性に富んだ多数の作品を生み出した人だ。

僕も時代小説は大好きなのだが、かつては「池波正太郎なんてオッサンの読むものだ」という先入観があって避けていたのだが、40も過ぎて自分がオッサンになったので試しに鬼平犯科帳を手に取ってみた。これがハマって、以来池波ファンとなっている。

池波正太郎の文は、子母沢寛、大佛次郎、吉川英治、山本周五郎、柴田錬三郎、そして司馬遼太郎など日本にあまたいる時代小説作家のそれと比べると、とにかく切れ味がいい。余計な修飾語がなく、それはまさに作品の主人公が使う剣の切れ味のようにシャープだ。隆慶一郎ほど荒々しくなく、吉川英治や山岡荘八ほど重くない。山本周五郎のようにウェッティでもない。だから長い作品でもスッと読めてしまう所がいい。

また当時の風俗文化が非常に分かりやすく描かれているのも興味深く、自分もそれを体験してみたくなるという不思議なオーラを放つのである。特に作品に出てくる食文化は現代でも“贅沢”を感じさせるものばかりだ。

食ばかりではない。誰もが憧れる「大人の嗜み」を、遊び慣れた感覚と歯切れのいい文章で我々に教えてくれる。池波正太郎の名前は単なる作家の名前でなく、池波正太郎という男のライフスタイルなのではないだろうか。

品川荏原にある書斎の一部が復元されている。執筆しながら資料などがすぐに手に取れる位置にある。

松の内も明けたある日、僕は浅草に近い「池波正太郎記念文庫」を訪れた。同文庫は墨田区立中央図書館の中にある1コーナーだが、池波の書斎が復元されているほか、筆達者だった同氏の作品や自筆の原稿などが展示されている、ちょっとした池波博物館なのだ。

もちろん文庫というくらいだから、その著作物も多数収蔵している。池波正太郎は時代劇作家ではあるが、エッセイも多く残している。中でも食に関するものは秀逸で、食道楽だった自分の体験を生き生きと書いた。同文庫でその中の1作品である「散歩のとき何か食べたくなって」を借りて読んでいたら、何だか無性に池波正太郎の食べた物を自分も食べたくなった。

思い立ったら吉日、がジムニー探検隊のモットーだ。同じく池波ファンである河野隊長に早速連絡を取り、池波正太郎流を楽しむ探検を始めることにした。

ユニークな生き様だった生粋の江戸っ子

待乳山聖天脇の公園にある生家跡の碑。

河野隊長と僕は、まずはジムニーで浅草の外れにある待乳山(まつちやま)聖天に向かった。いきなりグルメスポットに行くのは何なので、まずは池波正太郎に敬意を表して生家跡に行くことにした。

池波正太郎は1923年に待乳山聖天の脇で生まれた。この家は池波が6歳の時に関東大震災で焼けてしまい、その後は浦和、根岸、浅草と転々としたという。幼い時に両親が離婚し、母に引き取られた池波をかわいがったのは母方の祖父だった。この祖父は御家人の家に婿入りしたという江戸っ子気質の人で、池波が祖父の影響を多分に受けた。池波正太郎流は、実はこの祖父の受け売りの部分が半分なのだと思う。

小学校を卒業するとすぐに奉公に出るのだが、稼いだ金を元手に相場に内緒で手を出し、給金を上回る金を稼いでいたというから何ともおもしろい子どもだ。その金で美味いものを食べるのはもちろんのこと、映画、観劇、読書、旅行に登山、そして吉原と随分遊んだようだ。同じ年代の男子には到底体験できないことを、池波は10代でやってのけていたのである。これが、池波流とも言える粋のスタイルを育んだのだろう。

山の上にある待乳山聖天だが、595年に突然隆起して金龍が舞い降りたのだと言い伝えられている。

その後、旋盤工、画家、兵隊、公務員、劇作家、演出家を経験して、1956年ごろから時代小説作家となるのである。職を重ねてきた人間が彩り豊かかというとそういうわけではないが、池波の場合は間違いなく、ひとつひとつの職で得た経験がその作品の深みとなっているような気がする。

池波作品に登場する人物たちは、江戸の街で特にスポットライトが当たるわけでもなく質素に生きているという設定が多いのだが、どのキャラクターも自分の流儀をさらりと通し、小洒落た生き方をしている。それはまさに、池波正太郎の映し鏡に他ならないのだ。

生家跡には墨田区が建てた碑が残るのみだが、池波は6歳までしか住まなかったこの場所と隅田川を「いまでも故郷のように思う」と言って愛し続けたらしい。平成2年に67歳で亡くなったが、娯楽作家の生家跡に碑が残るとはまるで文豪なみだ。池波正太郎がいかに多くの人々に愛された作家だったか、改めて思い知らされた。

思わず唸る下町名店の味

アンヂェラスのダッチコーヒーは600円。コクがあるのだが、苦味がすっきりしている。

さて我々は浅草の中心地に戻った。隊長も僕も偶然だが1週間前に来たばかりだったが、新宿や渋谷と違って浅草は間を開けずに来ても心が躍る。雷門付近をぶらつきながら、オレンジ通り沿いにある喫茶店「アンヂェラス」に向かう。「チ」に濁点というだけで、おおよそ創業が古いことがわかる。

アンヂェラスの創業は昭和21年。きっと店を開いてすぐに、戦争でコーヒー豆が入らなくなってしまったに違いない。この店は池波正太郎のほか、川端康成や山下清、手塚治虫など多くの文化人に愛されてきた。見た目はフツーの喫茶店なのだが、池波は浅草での買い物帰りに必ず立ち寄り、「ダッチコーヒー」を飲んだと著書に書いている。ダッチコーヒーとは水出ししたアイスコーヒーのことだ。お湯で入れるのと違って雑味が少ないと言われている。

ここの名物は「梅ダッチコーヒー」という飲み物で、半分飲んだらそこに梅酒を入れて二度楽しむらしい。しかし運転中なので梅酒を飲むわけにもいかず、ここは普通のダッチコーヒーを注文。店内が意外と広く、相当な数の席数だ。昭和の香りがするインテリアは、スターバックス嫌いの僕には落ち着く。

大して待たないうちにコーヒーが運ばれてきた。薄まらないように、氷の入ったグラスとコーヒーのグラスが別になっている気遣いに感心する。ストローで一口すすると、これが非常に美味い! 1杯38円のコーヒーばかり飲んでいる僕の口には、島の風のような清涼感に感じる。時間をかけて水出しすることで、豆の香りと旨味だけを抽出していることがよく理解できる。

アンヂェラスにはケーキもあって、これがまたそそるのだが、甘いものは別な所で食べることにする。店を出て国際通りのほうに歩いて1分。雷門通りとの角にある「蛸松月」が次の目的地だ。

皮に蛸の刻印がある「蛸もなか」。1個137円なり。

池波は幼少の頃、ここの「蛸もなか」を好んで食べたのだとか。大人になってもその味が忘れられなかったようだから、相当美味いに違いない。

蛸松月は、幕末の頃の創業。初代は小塚原であんころ餅の行商から始めたらしい。その後、東本願寺西門に店を持ち、団子屋を開業。それが非常に美味だったらしく、客の一人から「タコのようにシコシコしているから“蛸だんご”という名前にしては」と勧められて、明治時代までその名前でやっていたという。明治15年に今の場所に移り、店の名前も「蛸松月」に変えた。蛸だんごは無くなってしまったが、蛸もなかと蛸まんじゅうを看板に今日まで続いているんだとか。

店に入ると、確かにもなかとまんじゅう以外は見当たらない。「蛸もなかを4個」と頼むと、紙袋に裸のもなか4個を入れてよこす。考えてみると、昭和の頃の店なんてどこでもこんなものだった。店を出て早々に口の中に入れると、たしかに美味い!

皮は普通だが、餡は上品な甘さでしつこくない。聞くところによると、この北海道産の白インゲン豆のつぶし餡なんだとか。小豆餡のもなかだと1個食べただけで「もう結構です」となってしまうが、これは2、3個立て続けに食べられそうだ。池波正太郎は子供の頃からこんな菓子を食べていたのだから、舌も肥えるはずである。

浅草というと雷おこしや人形焼きを食べている人を多くみかけるが、これは焼きたての人形焼きを上回る美味さだ。皆さんも浅草に行ったら、ぜひ試していただきたい。

池波ワールドを散策してみる

都営地下鉄菊川駅のすぐ上が、長谷川平蔵と遠山金四郎の屋敷があった場所だ。

次の目的は神田須田町で蕎麦を食べることなのだが、もなかで腹が膨れてしまったので、少々腹ごなしに池波正太郎にゆかりのある場所を巡ってみることにした。最初に訪れたのは、浅草からジムニーで10分程度の場所にある都営地下鉄菊川駅。

実はここには、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵の実際の屋敷跡がある。屋敷はいくつかあったようだが、場所が特定されているのはここだけだ。生家は築地にあったが、父親の代の屋敷替えで菊川に移ってきたらしい。

ちなみに小説の中では生家は本所三ツ目にあることになっているが、これは池波正太郎が古地図を誤認したという説がある。また役宅は清水門外、本宅は目白台にあることになっているが、あくまでも架空のハナシ。

屋敷跡には碑が建っているくらいだが、その敷地の区画は今も残っている。その中に何軒もの住宅や商店、マンションが建っていることを考えると相当広い屋敷だったのだろう。この屋敷は平蔵の孫の代に屋敷替えとなり、その後「遠山の金さん」こと遠山金四郎が住んだ。

「鬼平犯科帳」やら「剣客商売」に登場する場所を記した地図も売られており、こうしたものを見ながらドライブしてみるのも楽しいと思う。

池波正太郎は夜の柳橋を描いた絵を残している。

次にぶらりと立ち寄ったのは、JR浅草橋近くの柳橋だ。読者諸兄もご存じの通り、かつてはこの辺一体は花街が広がっていた。柳橋の芸者衆は粋なことで知られていたが、元々は深川界隈にいたという(いわゆる辰巳芸者)。1842年の天保の改革により、江戸市中の岡場所が禁止されてことから柳橋に移ってきた。

昭和の初期頃までは大層な賑わいだったようだが、近くに堤防ができたことで隅田川の水質が悪化。そこから衰退が始まったのだという。平成11年に最後の料亭が暖簾を下ろし、柳橋花柳界の歴史は幕を閉じた。

近辺を歩いてみると、まだ料亭や置屋らしい建物がいくつか残っている。きっと池波正太郎も若い時分にはこの辺りで随分遊んだにちがいない。「東京の情景」という著書の中で、1枚の絵と共にこんな風に書いている。

『夜は、景観の中の邪魔なものを闇に隠してくれる。
いまは、ほとんど昔日のおもかげをとどめていない柳橋界隈でも、
夜の、この絵の一角を見ていると、
どうにか(むかしを偲ぶことができる・・・)ような気もする。』

鉄筋の建築が立ち並び、古き良き時代の柳橋はもうない。ただ、昭和4年に作られた橋梁とそのたもとにある船宿だけが、かろうじて昔の面影を残している。池波の絵は、夜の闇に浮かぶ柳橋。神田帰りにでもここを訪れ、三味線や太鼓、嬌声が響き渡っていた昔を懐かしんだのかもしれない。

Vol.8-2へつづく...

池波正太郎記念文庫

[ 池波正太郎記念文庫 ]
東京都台東区西浅草3丁目25−16