駿府とは、現在の静岡の街のことだ。律令制によって駿河国の国府が置かれた駿府だが、室町時代から戦国時代にかけて駿河の守護職だった今川氏の城下町として栄えた。今川義元が討たれた後は荒廃したが、徳川家康によって再び整備され栄えることとなる。ところが豊臣秀吉によって江戸に移封されたことで一時は中村一氏が城主となるが、家康が大御所となり再び城主に返り咲く。
19歳まで駿府で人質生活を送った家康ゆえにこの地への思いが強かったとも言えるが、京の中央政権から独立した施政を行っていた今川義元を見て、この地こそ京も江戸も支配下に置ける政治ができると踏んだのかもしれない。パート1で静岡市民は一般的な日本人としての嗜好を持つと書いたが、こうした家康の政治姿勢が現代の静岡市民の感性に繋がっているとしたらおもしろい。
さて府中宿は駿河城のすぐ下に作られた宿場で、東海道で唯一花街が許された宿場であった。そのため、かつては東西の入口に木戸があったとされる。花街を作ることで夜間の通行が規制でき、同時に駿河城のセキュリティが強化できると考えた家康はさすが天下統一を成し遂げた人物だ。
今では静岡の駅前繁華街となっている府中宿だが、商業ビルの1階に西郷隆盛と幕臣・山岡鉄舟の会見の碑が建てられている。勝海舟は江戸城を無血開城するための下準備として、山岡鉄舟を駿河に駐屯していた官軍の元へと送った。鉄舟は清水次郎長や地元民の協力の下、西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城の礎を作った。徳川家康が江戸幕府の権力の礎を築いた駿府で、江戸幕府瓦解のきっかけが作られたのは皮肉な話である。