都内はもちろんのこと、神奈川や埼玉、千葉、山梨といった首都圏と直結している交通の要所、新宿。なんと新宿駅(西武新宿駅も含む)で乗降する人の量は、1日で約364万人というギネスレコード。幼少からこの駅を利用している僕だが、いまや通る電車の種類が多すぎて、何がどこを走っているのかまったく理解できていないくらいだ。
そんな新宿が町としてできたのは、江戸初期。徳川家康の家臣だった内藤清成が、家康入府にあたって先遣隊としてこの地で警備にあたったという。その恩賞として内藤清成はこの地に領地をもらい、現在の新宿御苑あたりに屋敷を建てたのだという。清成が率いた鉄砲隊は、その後百人組(将軍の親衛隊)として大久保に移ったのが、大久保に新宿百人町という町名があるのはそのためだ。
さて、江戸時代に幕府によって各街道が整備されたのは、これまでにもお伝えしてきた。新宿も南に甲州街道、北側に青梅街道(成木街道)が通る要衝であった。甲州街道は有事の際の将軍脱出ルート、青梅街道は江戸城築城に使われた石灰を奥多摩から運んだ道である。日本橋から発して、新宿でこの2街道に分かれるが、こういう交差点を「追分」と呼ぶ。現在の新宿通りと明治通りの交差点あたりで、現在も「追分だんご」という新宿名物がその名残を残す。
当初、甲州街道は日本橋から高井戸宿まで宿場がなかった。いまではクルマで30〜40分の距離だが、当時の旅人は休む所がなくて難儀したようである。その頃、すでに新宿2丁目あたりに集落があったようだが、住民から要望によって町屋を作った。これが「内藤宿」と呼ばれ、旅人や馬の休憩所になったのである。ただし内藤宿は正規の宿場ではなく、「立場」のような位置づけだったようだ。