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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.044
ビハインド・ザ・新宿
ビハインド・ザ・新宿

多くの人が行き交い、そのほとんどが何気なく通り過ぎてしまう街。
日本最大の繁華街・新宿も、そこにあった歴史を振り返る人は少ない。
でも、高層ビルが建つような場所でも
かつてそこは江戸を代表する名勝地だった過去があるのである。

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時代の流れに消えた幻の鉄道

新宿遊歩道公園は都電の線路だった。下の電車が出ている場所が現在の公園(新宿歴史博物館蔵)。

この東京に、かつて多くの都電が走っていたことを知る人も少なくなってしまった。若い世代などは、最後の都電・荒川線の存在さえも知らない人がいる。僕が小学校に上がる前に都電のほとんどが姿を消してしまったため、新宿駅界隈に路面電車が走っていたことは、うっすらとした記憶でしか残っていない。

新宿には新宿線、杉並線、角筈線といった都電が入っていた。ほとんどが元は私鉄であり、それを東京都が買い取ったという経緯がある。高度成長期のモータリゼイションの過程において、道路を占有する路面電車は邪魔者でしかなく、やがて地下鉄に取って代われた。今や軌道も電線も新宿から消え、我々の知らないところで何本もの地下鉄が走るのみである。

靖国通りを花園神社のほうに向かうと、突然左手に遊歩道がある。ちょうどゴールデン街の裏手だ。この新宿遊歩道公園は、かつて都電の軌道があった空間だ。ここは角筈線の一部が通っていた場所で、新田裏停留所(現在の日清食品本社前)から新宿区役所前の角筈停留所までの専用軌道だった。ちなみに角筈とはかつての新宿の町名で、古い世代は新宿と言わず角筈と呼んでいた。浅田次郎の「角筈にて」という小説は、この停留所が舞台となっている。

伊勢丹の項でも書いたが、新宿近辺にかつて2つの都電車庫があった。ひとつは伊勢丹横の新宿車庫。そしてもうひとつは新田裏の先にあった大久保停留所。空襲で焼けるまでは、新宿車庫がメインだったようだが、戦後は大久保車庫に統一されてらしい。新宿車庫を出た電車は、新宿通りを出て紀伊國屋書店の脇道を抜けて、後楽園アドホックから靖国通りへと出ていた。靖国通りにある中央分離帯は都電の停留所の名残という人もいるが、定かではない。

西武新宿線ホームの名残が残るルミネエスト。

ジムニー探検隊をやっていると、思わぬ事実に出会うことがある。新宿駅に行くと毎度思うのだが、「なぜ西武新宿駅は離れているのか?」。まったくもって不便でならない。ところが、西武新宿線は元々、現在のルミネエストに乗り入れする予定だったのだ。西武新宿線はそもそも高田馬場駅が終着点だったが、接続する路線が山手線しかなく、もっと都心に出たいというのが堤康次郎の狙いだった。早稲田まで伸ばして市電(都電)と接続という話もあったらしいが、結局戦後になって新宿まで延伸して接続するということになった。

ちょうど新宿駅の建て替えが計画されており、西武もその計画に参加。それまでは仮駅舎での営業が決まったが、それが現在の西武新宿駅の場所である。そこから新宿駅までわずかで、そもそもその区間はかつて西武電気軌道が持っていた都電杉並線の休止区間だったため、そのまま真っ直ぐ新宿駅に乗り入れればOKだったわけである。

新しい駅ビル内の2階に西武線のホームが入る予定で、そこに改札や何やら建設時に用意されていたのである。ところがこの西武新宿駅、ホームの長さは電車6両分、線路は2本しかなかった。すでに乗降客が急速に増えていた西武新宿線はこの駅ではキャパ不足で、結局乗り入れは中止。現在に至るのである。

ルミネエストの正面を入ると、みどりの窓口付近の天井に当時のホームの一部が残る。天井はアーチ形状になっており、2階両サイドには明らかに不自然な長い廊下がある。現在は休憩所になっているが、ここがホームだったのである。もしつながっていたら、間違いなく西武新宿線人気はアップしていたはずだ。

伊勢丹屋上から見た京王線線路。左手の高い建物が京王パラダイスビル。(新宿歴史博物館蔵)

最後にもうひとネタ。現在の京王線新宿駅は京王百貨店の1階と地階にあるが、ここに至るまでに2度も駅の場所を変えているのである。現在の京王駅は笹塚駅の東から地下に入り、甲州街道の下を通って京王新宿駅へと入る。大正4年から昭和2年までは、そのまま甲州街道を通り、何とJR南口の立体交差を越えて明治通りを左折し、伊勢丹の前の新宿追分停車場まで来ていたのである。

今の京王線は立派な電車だが、当時の電車は路面電車。この新宿追分停車場で市電(都電)と接続する計画だったが、取りやめになったようだ。余談だが、京王線のレール(軌道)幅は1372㎜で、一般的な狭軌の1067㎜ではない。これは当時、市電が1372㎜を採用していたためで、接続計画の名残なのである。

京王線はその後、関東大震災で駅の移動を余技なくされ、昭和2年に京王パラダイスビルがあった四谷新宿駅に移動。これは甲州街道と明治通りの交差点北東角にある、「フォーエバー21」が入っている京王新宿追分ビルがある場所だ。その後、戦争に突入するのだが、自社の変電所が戦災で焼失して電気不足に陥り、件の立体交差が越えられなくなってしまった。そのため、現在のJR、小田急線と並ぶホームに移動したというのが真相だ。ちょっと寂しい京王線のストーリーが、新宿に隠されていた。

新宿西口にあった名勝地・十二社池

熊野神社境内にある昔の十二社池の写真。

新宿都庁をはじめ、摩天楼が建ち並ぶ街・西新宿。かつてはここに、淀橋浄水場があった。淀橋浄水場は明治31年に完成した施設で、もともと玉川上水や神田川上水の老朽化により東京市の飲み水の水質が著しく悪化したことから、この地に建設された。

昭和40年3月に廃止されたが、僕の子供の頃は浄水場跡の空き地がたくさん残っていた。その頃の高層ビルと言えば、京王プラザホテルしかなく、よく空き地でヒーローもののロケが行われていたものである。今は新宿西公園内に水道のポンプ施設があるくらいで、浄水場は玉川上水上流の東村山市に移動してしまっている。

余談ではあるが、ヨドバシカメラの由来でもある「淀橋」は、神田川と青梅街道にかかっている橋の名前だ。渋谷で藤沢写真商会として営業していた同社は昭和42年に新宿淀橋(西新宿の旧地名)に移転して、この名前になった。

この一帯は淀橋と呼ばれる前は、角筈村十二社と呼ばれていた。のどかな田園地帯であると共に、浮き世に描かれるほどの景勝地だったという。現在もここには十二社熊野神社が残るが、室町時代の豪商・鈴木九郎が熊野三山の十二所権現すべてを祀ったことが地名の由来となった。1606年には農業用水確保のための溜め池“上の溜井”下の溜井”が作られた。さらに1667年に、玉川上水から神田川上水に水を分けるための助水堀が熊野神社の東側にできたことで、池に滝が落ちることになる。滝は周辺でいくつか落ちていたようで、これが大層美しい景観だったようだ。

江戸期には池の周りに茶屋などがあったようだが、明治時代になると三業地(料亭・待合・芸妓屋)ができて、花街として随分賑わったという。その池で船遊びをしたり、花火を楽しんだというが、今の十二社を見るかぎりではにわかに信じられない。

最後まで十二社で営業していた料亭「一松」の建物。

そもそも小さかった下の溜井は、昭和初期になると埋めたてられて消滅。上の溜井も宅地拡大によって、徐々に小さくなっていった。ちなみに上の溜井の前には日本の写真工業の先駆けである「六桜社」があった。麹町にあった写真関連商店の小西六兵衛店が、自社工場として建てたのが六桜社だ。写真工業にはきれいな水が欠かせなかったため、浄水場のそばに建てたようだ。小西六兵衛店は小西六となり、それがコニカ、コニカミノルタとなっていった。六桜社があった現在の新宿中央公園内には「写真工業発祥の地」の碑が残っている。

話は逸れたが、十二社の花街は空襲により一時壊滅。戦後に復興した花街は1950年代にピークを迎える。戦前にできた料亭・弁天閣が溫泉を掘削し、これが近年まであった新宿十二社溫泉である。西新宿は浄水場の廃止や再開発により大きく様変わりしていく。池は水質の悪化により1968年に完全に埋め立てられた。今は十二社通りやビルなどが建ち、その面影はほとんどない。十二社通りから西側の裏通りに入ると、そこから坂となる。そこには何本か階段が残っていて、それは料亭から池の畔に下りた階段だったという。

シティホテルの裏手には最後まで営業していた料亭・一松の建物と、さらに北側には池の畔に立っていた銀杏の古木が、変わりゆく十二社を今日も眺めている。

もうひとつの景勝地・四谷荒木町

荒木町の細道を入ると、今も料亭の名残を残す建物がある。

大木戸門から東に1kmほど歩くと四谷三丁目の交差点になるが、四谷に向かって左手に車力門通りという商店街の入口がある。そこには「四谷荒木町」という表示もあるが、かつてはここも大変賑わった花街があった。

荒木町は江戸時代には、高須藩藩主であった松平摂津守義行の屋敷があった場所だ。そのため、ここには「津の守坂通り」という名前が残る。前述の車力門というのもの、その屋敷に食料や物資を運びこむ荷車、馬が集まっていたことから名付けられた。松平義行は風流を好んだ人のようで、わざわざこの斜地を切り崩して人口の滝のある庭園を造った。

明治になると屋敷は立ち退いたが、その滝の庭園が評判となって景勝地となった。そこに飲食店が集まるようなり、花街となったという。この辺りも昭和30年ごろまでは随分賑わったようで、粋な芸者衆が界隈を歩く姿が見られたようだ。

ここで思うのは、新宿中心地、十二社、そして荒木町と半径5km圏内に大きな花街が3つもあったのはどういうことか。もちろん花街は神楽坂や柳町など、東京中にあったわけで、そのどれも賑わっていたということは、昔の日本が相当景気が良かったということなのだろうか。それとも、昔は娯楽が少なかったため、とにかく夜は花街で遊ぶというライフスタイルだったのか。

いずれにせよ現在の四谷荒木町はいたって普通の飲食店街になっているが、ちょっと細道を入ると料亭や待合の建物が残っている。散策をすると、昭和30年代にタイムスリップできて、おもしろい。車力門通りには駐車場もあるので、ジムニーを駐めて歩いてみてほしい。

新宿歴史博物館の内部。昔の新宿が知ることができておもしろい。

荒木町の南側に、並ぶようにして建っている「区立新宿歴史博物館」。ここは、新宿の歴史や文化をテーマとした博物館で、かつての新宿の様子が窺い知れて実におもしろい。

中には明治、大正時代の商家や、新宿の街を走っていた都電、昭和初期の一般住宅などが再現されている。また昔のデパートや映画館などの様子がわかる展示などもされている。楽しいので、ぜひ一度行っていただきたい。

今回ここを訪れたのがきっかけで、調査することになったトリビアをひとつ。新宿に歌舞伎町という繁華街があるが、歌舞伎座がないのになぜだろう? 実は甲州街道沿い、現在のIDC大塚家具の場所に「新歌舞伎座」という劇場がかつてあった。1929年に開場したが、1938年には映画館になってしまっている。

戦後の1948年、現在建て直しているコマ劇場の場所に「菊座」という場所柄笑ってしまう名前の演舞場建設が計画された。この演舞場では歌舞伎を中心に上演される予定だったが、結局資金難などで計画は中止となってしまった。ところが当時の都知事がフライングをしてしまい、この場所を「歌舞伎町」と名付けてしまうのである。ここに歌舞伎座がないのはそのためだ。

[番外編]日本唯一のウイグル料理店

ウイグルの民族料理「ラグメン」。讃岐うどんソックリだ。

今回の探検の中で、隊長がどうしても行きたい店があるという。西新宿のはずれにあるその店は、日本で唯一のウイグル料理のレストラン「シルクロード・タリム」だ。ウイグルとは東トルキスタンの遊牧民族たちで、中国の新疆ウイグル自治区に住んでいる。

河野隊長と尾上大隊長は、かつてこの地をジムニーでバイクで走った経験を持つ。その時、毎日昼食に食べていたという「ラグメン(ラグマン)」。ラグメンはラーメンの原形と言われている。そもそもウイグル人の食文化はトルコのものがベースとなっており、そこにウズベキスタンやカザフスタンの料理が影響している。

店に入るとウイグルの人たちが出迎えるのだが、彼らの顔はやはりモンゴロイドではなく、明らかにエキゾチックな血が入った顔だ。カザフスタン人とかによく似ている。店内の雰囲気はトルコ料理店のような感じで、やはりユーラシア大陸は広いんだなぁと感じさせる。

さて件のラグメンだが、食してみるとまるっきり讃岐うどんだ。ラーメンの原形というが、うどんである。かかっている肉あんは東南アジアでよく食す味。いったいどんな味がするのか少々不安だったが、たしかにこれなら毎日食べても問題ない。

日本のうどん文化は中国から入った製麺文化を基に独自に発達したもの…とする説があるが、これを食べると「なんだ、ラグメンが日本に伝わってきただけか」と思う。うどん好きなら、ちょっと試してみてほしい。

後日、新宿御苑に行ってみた。内藤氏の下屋敷があった場所だが、維新で皇族の土地となった。若い頃、ゴルフに熱中していた昭和天皇はここにコースを造り、プレーしていたという。苑内にはクラブハウスとして使っていた建物が今も残っているが、そんな歴史があったことも芝生で遊ぶ家族連れは知らない。

平成の世で新宿はさらにその顔を変えているが、ここには様々な歴史があり、その歴史は砂の楼閣のように消えていこうとしている。新宿に限らず、東京にはこうした消えゆく歴史がたくさんある。ジムニーで走っている時、ふとここがどんな場所だったのかを考えてみてほしい。それが探検の始まりだ。

<文・写真/山崎友貴>

新宿三丁目交差点にある追分を示すモニュメント。
成覚寺にある、飯盛女たちを埋葬した「子供合埋碑」。
内藤氏の菩提寺である太宗寺。この前にできた町屋が内藤宿のはじまりだ。
四谷4丁目交差点付近にある大木戸門の碑。石はかつて水道の石樋で使っていたもの。
縦看板の左側の細い窓の部分が、ほてい屋と伊勢丹の接合部分。
歩道部分を線路が通り、建物2階部分に西武新宿線が乗り入れる予定だった。
新宿2丁目にある「新千鳥街」はかつての赤線だった建物。
十二社界隈にはかつて花街だった香りがうっすらと残る。
十二社池の畔にあった銀杏は、いまもしっかり立っている。
神田川にかかる淀橋。昔の橋の橋脚で欄干が造られている。
新宿駅西口の一角にある「思い出横丁」は、かつての闇市の名残だ。
かつて京王線はこの新宿南口の跨線橋を越えて、右から2番目にあるビルの場所まで走っていた。
甲州街道を走る京王線。後ろのガスタンクが現在のパークハイアットの場所。(新宿歴史博物館蔵)
かつて内藤家の下屋敷があった新宿御苑。その時の庭園が今も残る。
この洋館は皇族が休憩したところで、昭和天皇のクラブハウスでもあった。
荒木町界隈を歩くと、かつて待合だったと思われる建物が多く残っている。