僕が子供の頃は、小田原もその先の熱海もメジャーな観光地だった。東海道新幹線でのぞみが走り始めた頃からだろうか。小田原や熱海は観光地として廃れ、どちらかというとストロー現象の通過点の場所となってしまった気がする。河野隊長のように「いや、神奈川県民はけっこう小田原に行きますよ」という親小田原派がいるかと思えば、別な知り合いのように「小田原は通過が多いねぇ」という県民もいるようだ。
さて小田原だが、この地は縄文時代にはネイティブ日本人と渡来人が共存共栄した珍しい場所だったらしい。中世には波多野氏の領地だったようだが、当時はあくまでも秦野市が中心地だったようだ。小田原が関東一円の中心地になったのは戦国時代。伊勢新九郎、いわゆる北条早雲がこの地に居城を造ってからである。
僕らが日本史を習った時には、北条早雲はどこの馬の骨とも分からぬ人間が立身出世した…などと、下克上の象徴と言われていた。ところが昨今の研究によれば、早雲は室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏、つまり伊勢流平氏の出自だったことが分かっている。早雲の時代は北条を名乗っておらず、伊勢盛時、もしくは伊勢宗瑞と言っていたようだ。北条を名乗ったのは息子の氏綱からだといわれている。
さて、この北条早雲が1400年代末期に小田原城にいた大森氏を討ち、城を我が物にした。知略に優れた人だったようで、戦上手というのが歴史の評価である。一度は三河方面に領地を広げようとしたが失敗し、その後矛先を関東に向けて、徐々に領地の拡大に成功した。早雲以降、北条家は氏綱、氏康、氏直、氏政と豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代続き、神奈川、埼玉、群馬、栃木、伊豆の広い範囲を領地としていた。
ちなみにこの5代は、鎌倉時代の北条氏として区別して「後北条」とも呼ばれる。共に桓武平氏ではあるが、直接の後裔ではない。ただ同じ相模国を領地としたこともあり、伊勢氏よりも執権であった北条氏を名乗ったほうが都合が良かったという見方もあるようだ。