現在の小田原の市街は駅を中心に繁華街が広がっているが
かつては城の南側が城下町であった。
現在はクルマの往来も少ない閑静な場所だが
そこには古の小田原の町がひっそりと残っていた。
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東京からさほど遠くなく、後ろは山、前は海に囲まれるという立地条件の小田原は、明治以降には政府要人や財界人などの別荘が多く建てられた。有名なところでは、伊藤博文や山県有朋など。現在もいくつかの別荘だった邸宅が一般公開されている。
小田原城の北西すぐのところにある「清閑亭」は元老院副議長だった黒田長成公爵の別荘だったもので、明治末期から大正初期にかけて造られた数寄屋造り。非常に贅沢な建物で、現在は国の有形文化財に指定されている。
清閑亭はかつて北条家が小田原征伐に際して造らせた小田原城土塁跡の上に建てられている。黒田長成は小田原征伐で和睦に貢献した黒田官兵衛の子孫であり、その人の別荘が小田原城土塁の上にあるというは、何とも運命的な話である。
清閑亭は入場無料で、しかも駐車場があるので行きやすい。小田原城土塁の遺構を眺めながら、邸内へと入る。さすが元老の別荘だっただけあって、豪奢な雰囲気に溢れている。縁側に出ると相模の海を借景とした庭が広がり、思わずため息が出た。
この邸宅は戦後に浅野侯爵家の持ち物となり、さらに第一生命の施設となった。中は珈琲などを飲むことができるカフェスペースにもなっているので、探検の途中にゆるりと休むのちょうどいいスポットだ。
さて、国道1号線に戻って箱根方面に走ると、板橋見附の交差点がある。信号を右折すると、そこから旧東海道に入る。ゆるいカーブを曲がった後、道は広い直線へと変わる。この辺りは、かつての市街地だった場所で、今もデザインの美しい和洋折衷の古い建築が往年を忍ばせている。この道から北側に少し入った辺りも、リッチな人たちの別荘があった辺りだ。
山県有朋の別荘だった「古稀庵」は庭園が有名で、近代日本庭園の傑作となっている。古稀庵は日曜日のみ一般公開されている。このすぐ近くにある松永記念館は、電力王と呼ばれた資本家・松永安左ヱ門が壮年期に住んだ場所を氏の収蔵と共に公開している。
松永安左ヱ門は“最後の数寄茶人”と呼ばれた人でもあり、園内には耳庵と呼ばれる茶室がある。さらに市内の別にあった、同じく実業家だった野崎幻庵が建てた葉雨庵も同所に移築されている。
庭園を散歩しながら山の上へと行くと、松永安左ヱ門が住んでいた老欅荘がある。これも国の有形文化財に登録されている貴重な建築で、侘びさびとはこういうものだという手本のような建物である。中に入ることができるのだが、ここで気づくのは、金持ちほど家の中がすっきりしているということだ。一流だが最小限の物だけを傍らに置いて生きる。これがリッチな人たちのシャープな精神構造を築き上げるのかもしれない。モノが溢れる空間で過ごしている自分の精神の貧しさを、改めて思い知らせる空間だった。
小田原市内では、ここで紹介した以外にも北原白秋など有名人の別荘が公開されており、ひと時優雅な気分を味わうことができる。また小田原城から南側、海に近いところにある「西海子(さいかち)小路」は、かつての武家屋敷が並んでいた通りで、今も江戸時代の風情がどことなく感じられる空間だ。ジムニーなら裏通りも探検することができるので、ゆっくりと走ってみてほしい。
小田原と言えば、何はともあれ思い出すのがカマボコだ。漢字で書くと蒲鉾で、神功皇后が三韓征伐を行った際に、鉾の先にすりつぶした魚の身を付け、それを焼いて食したのが始まりと言われている。名前の由来は、鉾の先に付けたその形が植物の蒲の穂に似ているから…という説もある。
さて、なぜ小田原でカマボコ作りが盛んになったのかというと、まず良質の白身魚が多く穫れるということがあった。江戸時代には、小田原で良質な魚が穫れるということを聞きつけた日本橋の蒲鉾職人たちが多く移り住んだとも言われている。
第二に要因としては、スピーディな流通が発達していなかった江戸時代に新鮮な魚を箱根に運ぶのが難しかったため、保存食のカマボコが発達したということ。昨今でもそうではあるが、江戸時代は特に白身魚は高級なものであった。それ故、カマボコも今よりもずっと高級な食べ物だったのである。落語の中で「板わさで一杯やりたい」なんてフレーズがよく出てきており、古典「長屋の花見」では、お花見の重にカマボコを入れる代わりに大根を入れていた庶民のハナシが出てくる。
小田原城の東南にある旧東海道沿いには、今もたくさんの蒲鉾屋が立ち並ぶ。中でも有名なのが、籠清と鈴廣だろう。籠清は創業1814年、鈴廣は1865年というから、共に長い歴史を持っているわけである。これは素人のフィーリングではあるが、店によって微妙な塩加減だけでなく、食感がずいぶん違う気がする。カマボコの食感というのは「足」と呼ばれて、職人には重要なもののようだ。
もう15年以上も前になるが、某自動車メーカーの試乗会のお土産で、籠清の1巻3000円もするカマボコをいただいた。それまでカマボコが嫌いだった僕だったが、それを食べてからというものカマボコの価値観が大きく変わってしまった。高いカマボコは、それくらい衝撃的に美味い。
籠清がいかにも老舗の店構えで営業しているのに対して、鈴廣は次々とチェーン展開し、本店などはもはやテーマパーク化している。観光バスが入れる大型駐車場を備え、平日でも箱根・伊豆帰りのおじさんとおばさんで溢れかえっている。
鈴廣本店の横には「かまぼこ博物館」という施設がある。ここは工場と併設して、カマボコの様々な知識が得られるという博物館。まあ、特段すごくおもしろいわけではないのだが、お金を払えばカマボコが自作できるというアトラクションも用意されている。
並びには大型の土産店があり、ここでは「かまぼこバー」なるものがあったりする。様々な種類のカマボコを寿司屋のようなカウンターで少しづつ試せるというものだ。まあ、僕の場合はカマボコが好きというよりは、カマボコで飲む酒が好きなくちだから、あまりこういうのは楽しくないのだが、練り物マニアの方は試していただきたい。
ちなみに、鈴廣本店で売っている薩摩揚げは高いが絶品だ。お高いカマボコ共々、ぜひ一度チャレンジしていただきたい。高級品だった江戸時代の人々の気持ちが、よく分かると思う。
僕は小学3年生まで、ういろうは名古屋のものだと信じてやまなかった。ところが、小学3年生の夏に小田原旅行をした際、「ういろうは小田原が元祖」ということを聞いた。だが、名古屋では名古屋元祖として売られている。親に聞いたところ、いかにも面倒くさそうに「チョコレートは東京でも大阪でも売られているだろ。ういろうも一緒だよ」と。すごく理不尽な思い出だ。素直に育った自分を褒めてやりたい。
皆さんには、あれから40年経って大人になった僕がきちんとリサーチしてお伝えしたい。そもそも「ういろう」という変な名前は、中国の官職名から来ている。元(ジンギス・ハーンの)に使えていた陳延祐という人が、外郎(ういろう)家の祖先だ。この人は中国で、大医院・礼部院外郎(がいろう)という役職だった。中国では官職は人数が定められていたのだが、そこには入らない官職が外郎といった。
この陳延祐は、元が明に滅ぼされてしまったことから「二君に仕えず」ということで、日本に渡ってきた。そして自分の名前を「陳外郎(ういろう)」と名乗ったらしい。わざわざ読みを変えたのは役職名と間違えられないようにということだったらしいが、そもそも外郎なんて名前を付けるほうがどうかと思う。
で、陳外郎は医術に詳しかったため、時の将軍・足利義満に招聘されたのだが断り、代わりに息子の大年宗奇という人が、将軍家に仕えた。重職に就いた大年宗奇は幕府の求めで中国に帰り、秘薬の処方を持ち帰った。それは「霊宝丹」という薬で、いろいろな症状に効く万能薬だったらしい。その薬は時の天皇から「透頂香(とんちんこう)」という名前が下賜された。だが世間では外郎家が作っていたころから、そのまま「ういろう」という名前が付いたという。
さて、お菓子の方の話はここからである。外郎家は幕府の接待役も勤めていたため、自分たちでもてなし用の菓子を考案した。これがいわゆる「ういろう」なのである。ういろうは、苦い薬のういろうの後に食べると、そのギャップが絶妙だということになり、大層な人気になったんだとか。
大年宗奇の孫、陳外郎定治という人も非凡だったようで、様々な大名から誘いがあった。それを断り続けていたが、ついに北条早雲の招きで陳外郎定治は小田原へと移り住む。そして以後、小田原で薬とお菓子のういろうを作り続けているということだ。
では、名古屋のういろうはどうして伝わったのだろうか? 名古屋元祖を謳う餅文総本店の説明によると、江戸時代に尾張藩の御用商人だった餅屋文造が、明から来た別の陳さんに教わったというのである。
つまり、大年宗奇はいかにもオリジナルで菓子を考えたように世間に触れ回ったようだが、実は中国では広く知られたお菓子ということになる。これはSTAP細胞の論文なみに問題ではないのか! などと野暮なことは言わず、まあ小田原のういろうのほうが古いということが分かった。
ちなみに僕はういろうが大好物で、特に小豆と白が最高だと思っている。今回はせっかくなので薬も買ってみた。とにかく腹下しや胃痛、乗り物酔いなど何でも効くらしいが、見た目は仁丹にそっくり。味も仁丹とか宇津救命丸にそっくり。飲むと胃がすっきりして、なかなか気分がいい。
ところで、ういろう本店の店構えはまるで城郭のようなのだが、これは陳外郎定治が北条早雲から与えられた八棟作りの屋敷を現代でも受け継いでいるらしい。中にはういろう博物館もあるので、気になる人はスタッフに見学を申し出るといい。
小田原城のほど近くにある、立派な唐破風建築。小田原では人気の料理店「だるま」だ。創業は明治26年という老舗で、初代の建物は関東大震災で損壊してしまったという。現在の建物は2代目が大正15年に建てたもので、国の有形文化財に指定されている。
平日なので空いているだろうとタカをくくっていたら、店内は大賑わいだ。外観も立派だが、店内の格式もなかなか。寺のような格天井の店は、古都でもなかなかお目にかからない。昔のデパートにあったお好み食堂のようで、ちょっとワクワクしてくる。
お店のお姉様方はきちんとした制服を着て給仕をしてくれる。そんなところも、デパートのお好み食堂を彷彿させるのかもしれない。同店は元々、小田原の網元だったこともあって刺身定食などがメニューを飾っているが、天丼も人気らしい。
気分は天丼だったので、今回はこちらを楽しむことにした。しばらくすると、たっぷりとツユのかかった茶色い天丼が出てきた。味はすごーく美味いわけではないが、てんやよりは明らかに美味い。ごま油のいい香りがする。味は普通でも、何よりこの雰囲気の中で食べるのが楽しい。クルマでないのなら、ビールでも一杯やりながら暢気に昼下がりを過ごしたいところだ。
小田原にはだるま以外にも、駅前にある大正9年創業の蕎麦屋「寿庵」も人気のグルメスポットだ。また、旧東海道沿いにある「小田原おでん本店」も行ってみたい店。
ということで、今回は東海道の城下町・小田原を探検してみた。平成の世の中にあっても、どこか“抜け切れていない”町というのが印象。だが、その素朴な感じが小田原の魅力であることも確かだ。「なんか都会のギラギラした感じが疲れるなぁ」と感じたら、ぜひこの町を訪れてみてほしい。どこか遠くの城下町にふらっと旅に来た…、そんな旅情を味わえるはずだ。
<文・写真/山崎友貴>