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13.01.25

【Vol.8-2】日本再発見ジムニー探検隊>>池波正太郎流をたしなむ

池波正太郎の作品やエッセイに出てくるゆかりの場所を巡る今回の探検。
柳橋を後にし、今度は池波が愛してやまなかった神田へと向かった。
昔気質の名店が並ぶこの辺りは、独特の雰囲気が漂っていた。

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神田藪近くにあるもうひとつの名店

神田まつやは明治17年に創業。店の佇まいが昭和世代の心をくすぐる。

秋葉原の万世橋近くにかつて、交通博物館があった。現在の鉄道博物館の前身だが、ここは国鉄中央線の万世橋駅と共に、東京市電の大きなターミナルがあり、随分賑わった所だった。現在は神田須田町というが、昭和の初めまでは神田連雀町という旧町名だったという。

徳川家康が入府した頃からあった古い町で、都心にありながら空襲を免れたために古い建物がずいぶんと残っている。池波正太郎も子供の時分から神田の古書街帰りに通ったらしい。池波お気に入りの店は何店かあるが、中でも通ったのが「神田まつや」だ。

池波は大層気に入っていたようで「むかしの味」や「散歩のとき何か食べたくなって」などの著書で必ずまつやを紹介している。近所には有名な神田藪があるが、大晦日にはまつやに行く…と書いてある。池波は他の江戸っ子に違わず大層な蕎麦好きだったようだが、これは曾祖母の影響だったという。曾祖母は「肉なんて食べたらろくなことにならない」というような昔気質の人だったらしく、幼い池波を連れて年中蕎麦屋で飲んでいたいう。

子供にしてみれば蕎麦なんぞより肉が食べたいわけで、子供の池波が蕎麦屋で食べたのがカレー南蛮だった。蕎麦通と言われる人はカレー南蛮を邪道だとするが、これは多くの蕎麦の名店に置いてないからだろう。カレー南蛮はそもそも大阪の蕎麦屋で始まったものだから、江戸の蕎麦好きは喰わないという風潮があったようだ。

たしかに美味い神田まつやのカレー南蛮は950円。せいろをやめて食べる価値はある。

まつやは創業明治17年という老舗ながら、一連の藪とは違ってカレー南蛮をメニューに載せている。池波が「うまい」と言ったカレー南蛮を僕も早速注文してみる。僕も普段はせいろしか食べない。カレーうどんは食べてもカレー南蛮そばを食べることは滅多にない。

風情のある広い店内を見渡しながら、蕎麦が来るのを待つ。平日の午後2時も越えようというのに、店内は人はいっぱいだ。客も老若男女と様々で、杯を傾けながら箸を動かしているオヤジがいれば、蕎麦を上品に手繰っているOLといろいろだ。10分も待たないうちに、愛想のいいおばさんが蕎麦を運んできた。

黄色いカレーがたっぷりと丼に入ったビジュアルはどうも苦手なのだが、池波正太郎が美味いというのだから食べてみよう。カレーをはねさせないようにゆっくりと手繰って口に入れると…美味い! 間違いなく味はカレーなのだが、奥に鰹のいい香りがする。辛くもなく甘くもなく、そしてダシの味がしっかりと主張しているところは、まぎれもなく江戸の蕎麦だ。

鶏肉とネギの分量も絶妙で、蕎麦を食べるのを邪魔しない。箸を動かす手を休めようとするのだが、美味くて次から次へと蕎麦を手繰ってしまうくらいだ。結局、ものの10分もしないで完食。ちなみに池波正太郎は蕎麦の食べ方について“蕎麦は2,3回咬んで飲み込むのがいい”と「男の作法」に記している。

隊長も僕も蕎麦好きであちこちと行くのだが、蕎麦屋というのは名店の誉れが高いほど客あしらいが微妙になってくる。ここ神田まつやは、忙しい中でもホスピタリティが高く、何とも気持ちがよい。蕎麦屋の多い神田界隈で池波正太郎がここに通った理由が、行ってみるとよく分かる。

汁粉屋は逢い引きの場所だった?!

昭和5年の建物が今もそのまま残る「竹むら」。中が、またいい。

カレー南蛮で辛くなった口を、甘い物で口直ししたくなった。池波正太郎はまつやで飲んだ後は、すぐ近くにある「竹むら」の粟ぜんざいを食べるのが習慣だったらしい。ということで、隊長と僕も竹むらに寄ってみることにした。

竹むらは昭和5年の創業。その当時のままの建物で今も営業している。僕の住んでいる阿佐ヶ谷にも、「うさぎや」という和菓子の名店がある。ここの汁粉も美味いのだが、かつては昭和の初めの建物で営業していたのだが建て替えてしまった。こうなるとどうにも風情がなくなる。

池波によると、汁粉屋というのはかつては男女が逢い引きに使う同伴喫茶のような場所だったというから驚きだ。たしかに、ここ竹むらも2階があり(今は使われていないようだ)、何となくそんな風情を漂わせている。入口を入ると、いい色に褪せた木造の空間が広がる。他の客はテーブルで食べていたが、小上がりがあって、僕らは迷わずそこを選んだ。

760円と少々お高いが、食べればその価値がわかる粟ぜんざい。

ここの名物は「粟ぜんざい」と「揚まんじゅう」。池波も好んで食べたという粟ぜんざいを注文する。隊長はあえて餅ぜんざいを頼んだ。すぐに椀に入ったぜんざいがやって来た。ふたを開けると、こってりと濃厚なこしあんが入っている。ちなみに、ぜんざいは関西、汁気の多い汁粉は関東が発祥らしい。関東でぜんざいを食べるようになったのは幕末の頃かららしい。

左の写真をご覧いただくと分かるが、椀を逆さにしても落ちてこなさそうなくらいあんこが濃厚だ。ちょっとしつこそうなイメージだが、箸の先に少しのせて口に入れてみると、ちっともしつこくない。これも甘さが絶妙で、とにかく軽いのだが甘さを求めている口を満足させてくれる感じだ。粟とからめると、また美味い。隊長にひと口試食させると「餅より美味い!」と言う。餅ぜんざいを平らげた後に、また粟ぜんざいを注文してしまうくらい美味いのである。

たいらげた後は、ゆっくりと店の風情を楽しむ。東京ではこういう店が本当に少なくなった。昭和初期の建物であっても古民家カフェなどという小洒落たものになっており、昔ながらの風情で昔ながらの味を楽しめる店は貴重だ。池波もこの店の雰囲気を大層気に入っていたようで、「鬼平犯科帳」の中の『お雪の乳房』という作品の中で、竹むらを彷彿させる汁粉屋を登場させている。

文人たちが愛した都心の小さなホテル

創業は昭和29年の山の上ホテル。アールデコ調の建築が美しい。

池波正太郎は数え切れないくらいの作品を残しているが、とにかく多忙の日々だったに違いない。1か月のうち、ほとんどが執筆に費やしていたようだったが、月の4、5日をお茶の水の「山の上ホテル」で過ごしたようだ。

「気持ちのよいホテル」と賞賛し、神田の古書街をブラブラしたり、エッセイや絵を描いたりとして日がな一日を過ごしていたらしい。山の上ホテルのロビーには、池波正太郎が使ったライティングテーブルやホテルに贈った絵が今も残されている。

山の上ホテルは昭和29年に創業した。ホテルとしてはそれほど古くないのだが、建物自体は昭和11年のものだ。そもそもこの建物は「佐藤新興生活館」という施設だった。石炭の豪商だった佐藤家が、近隣の女性に洋風の生活を体験してもらうために造ったのだという。戦時中は帝国海軍の施設として使われ、戦争が終わるとGHQに接収されて陸軍女性部隊の宿舎として使われた。

駿河台の丘の上にあることから、GIたちから「ヒルトップ」の愛称で親しまれ、その後、ホテルの創業者である実業家・吉田俊男が意訳して「山の上ホテル」としたという。

このホテルは川端康成や三島由紀夫などといった名だたる文人たちに愛されたことでも有名だ。駿河台は小学館などの一ツ橋グループの出版社が近いこともあって、このホテルに作家をカンヅメにして執筆させた…らしい。同じく締め切りに追われる身としては、何とも身につまされる。

ジムニー探検隊も2013年初なので、ここは奮発して山の上ホテルに宿泊することにした。都内在住の身としては、そうそう都内に宿泊する機会などないし、ましてや憧れの山の上ホテルともなれば心も躍る。

山の上ホテルは本館と別館があるのだが、本館だけを取ってみれば小さなホテルだ。名門と言われるが、ホテルマンの対応も気取ったところがなく、ホテルというよりは旅館に近いと言える。創業者の吉田俊男が“素人のホテル”と称したように、どのスタッフも一生懸命やっているという気持ちが自然と伝わり、何とも心地よい。多くの文化人が絶賛したこのホテル良さは、まさにこういう部分なのだろう。

さて、夕食はこれまた池波が愛した「天ぷら山の上」でいただくことにした。天ぷらという食べ物は不思議なもので、ネタに粉を付けて揚げるだけのシンプルなものなのだが、ネタやら油やら揚げ方でまるで違った料理になってしまう。安い天ぷらは、それこそ食べた後にモタれてオヤジの胃にはヘビーだ。

池波正太郎も祖父の影響で随分天ぷらが好きだったようだ。当初は日本橋室町の裏通りにある「はやし」を気に入って贔屓にしていたが、山の上ホテルに宿泊するようになってからは専ら天ぷら山の上ばかり通った、と池波の書生だった作家・佐藤隆介は書いている。

池波が通った頃には、この店には近藤文夫という伝説の職人(銀座・てんぷら近藤の店主)いた時期で、近藤が独立してからは池波の近藤の店に行くようなったらしい。だが、近藤の技は今も受け継がれていると巷の食通は言う。店の雰囲気はどこにでもある天ぷら屋のそれだが、出てきた天ぷらは名店の名に恥じない味だ。

カラッとした食感は当たり前だが、ネタの味わいや歯ごたえがしっかりとしていて、とにかく美味い。油はどういうブレンドなのか分からないが、ゴマ油の強い匂いはほとんどせず、一品食べ終わった後でもまったく口がしくこくならないのは不思議だ。前述の通り、天ぷらにはピンキリがあって、ここは価格で考えると1万円以上する高級店だ。だが、高い金額以上の美味さがあって、本当に贅沢な味だと思う。

ちなみに天ぷらは江戸時代はファストフードで、露店で食べるものだった。火事をお恐れた幕府により、出火の恐れがある商売は屋外で…と決められていたからだ。昔は立ち食いしやすいようにネタを竹串に刺して揚げていた。そしてサッと食べてサッ立ち去るのが江戸流だったのである。池波も「天ぷらで長居するものではない」と書いているが、天ぷら山の上では贅沢な天ぷらをゆっくりと食べられる。大人っていいなと感じる時間だ。

オーソドックスだが心地の良い部屋。TVなど観ずに本でも読んで過ごしたい。

天ぷらの後は、これまた文化人の間ではお馴染みのホテルバー「NON NON」の止まり木に座る。隊長と今年1年の探検隊の安全を祈ってグラスを合わせた。

池波正太郎の愛した店は、まだまだ無数にある。池波が食を書いたエッセイは何冊もあるし、また池波の食文化に関して他人が書いた本も無数にある。今回ご紹介した店はほんの一部にしか過ぎない。

池波正太郎の愛した味というものには、筋の通った共通点がある。まあ、今回の天ぷらは別として、大抵の食はそれほど高くなく庶民的なものが多い。だが、どの店の味も手間がかかっていて「これは価値がある」と素直に思えるのだ。金を出せば美味いものは喰えるが、そこそこの値段でも美味いというものを見つけるには、味わう側に経験値がないと難しい。

池波は子供の頃から多くの大人たちに連れられ、そういった食を味わってきた。そうした経験が感性の素地を作り、そして相場でもうけた金でそれをさらに磨いた。現代は何でもかんでもファストフードになりつつあるが、作り手が時間をかけて価値のある一品に仕上げているという食べ物も、探せば結構残っているのだ。

池波正太郎が亡くなってから随分経つが、その作品によって彼から「大人の粋な生き方」を学ぶことは今からでもできる。大人の幼児化が言われて久しいが、そろそろ五十路も目の前なので、ここらで楽しい大人として再修行でもするかと思った次第。

というわけで、今回は池波正太郎流を楽しむドライブをお届けした。「昭和は遠くなりにけり」で、池波正太郎が愛した店の中には訳あって閉店してしまった店もある。皆さんも無くなる前に、池波作品を片手に自分だけの探検ルートを作ってみていただきたい。

<文&写真:山崎友貴>

池波正太郎ゆかりのスポット探検ギャラリー

山の上ホテル

[ 山の上ホテル ]
東京都千代田区神田駿河台1丁目1

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