昨今、日本各地が世界遺産に認定されて話題になることが多いが
能登半島は「世界農業遺産」に指定されている。
伝統的な農業景観や農村風景を多く残した能登には
我々日本人の心をうつ懐かしくも新しい価値観がたくさんあった。
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旅の魅力とは、偶然の出逢いがあることだ。海沿いを走り、輪島市のほうに向かっていると、突然河野隊長が「いま、気になる町並みがありましたよ」と言う。これまでの探検でも、ドーベルマンのような優れた嗅覚で名スポットを探り当ててきた隊長だけに、その直感に賭けてみることにした。
ジムニーをUターンさせて集落に戻ると、「黒崎地区伝統的構造物保存地区」という看板が出ている。集落に入ると、板張りで統一されたシックな町並みが広がっていた。さすが、隊長のスーパーノーズ。
さて黒崎は、かつての天領(幕府の直轄地)として栄えた場所である。江戸時代、能登には62カ所の天領があったというが、その中でも一番栄えたのが黒島だった。その理由は、北前船の廻船業。北前船とは日本海沿岸の各地から関門海峡を通って、大阪に行っていた輸送船だ。
黒崎では、室町末期に番匠屋善右衞門なる人物が廻船業を起こした。それ以降、明治初期まで黒崎は廻船業で栄えたのだという。不思議に思ったのは、黒崎が砂浜に面しているということだ。こんな場所で、どうやって北前船が停泊したのだろうか。後から調べてみると、船は別な港に停泊し、黒崎には船主、船頭、そして水夫といった人々が住む住居地区だったことが分かった。
黒崎の人々はそのDNAを昭和まで受け継ぎ、その優れた操船技術ゆえに外洋航路の船の船員だった人が多かったらしい。冬の日本海の荒れようは半端ではないので、そんな荒海に揉まれた黒崎の人々が近代においても優れた船乗りだったというのは、何とも僕まで誇らしくなってしまう。
現在残っている重伝建地区の大半は、廻船業が最も盛んだった明治の頃の町並みだという。建物は切妻屋根の平入り玄関が基本で、壁面は板の下部を重ねて貼り合わせる「下見板張り」となっている。この板張りの風合いこそが、この町の個性となっている。屋根瓦は釉薬を塗ったてかりのあるもので、マットな板の壁面とのコントラストを織りなしている。
能登半島を襲った2007年の地震では、黒島地区268戸のうち98戸が全半壊したという。集落の中を散策してみると、古い家の中に新しい風合いの家がぽつぽつと建っていた。これらはきっと地震で被害を受けた家なのだろう。右の写真の廻船問屋住居「角海屋」も地震の被害を受けたが、現在は修復されてかつての姿を取り戻している。
この辺りの道はまさにジムニーサイズで、目抜き通りの外浦街道をゆっくりと走り抜けるだけでもその情緒を味わうことができるはずだ。だが神社前にクルマを駐めて歩いてみれば、一層この町の魅力がわかるはずだ。
小豆島の回でも書かせていただいたが、棚田は水田の形態としては最も古くベーシックな形だ。水車などの灌漑技術が発達したのは江戸時代の中期のことで、それまで平地で水田を作るというのは恵まれた条件下でなければ叶わなかったのである。棚田であれば、田の上に水源があれば、重力で下の田に水を落とすことができる。
さて農林水産省は全国の棚田・千枚田の中から、特に優れた景観を持つものを100カ所選んだ。これが1999年に発表された「日本の棚田百選」である。僕もそのうちのいくつかを訪れたことがあるが、棚田の美しさはイコール人間の美しさなのではないかと思う。
狭い山間地を切り開き、わずかな土地に水田を築く。それは周囲の景観と融合して、得も言われぬ美しい幾何学模様を造り上げている。日本人が何百年間も受け継いできた、まさに英知の結晶なのではないだろうか。
輪島市から珠洲市に向かう国道249号線沿いに、国の名勝指定となっている「白米(しらよね)千枚田」がある。西斜面のわずかな土地を上手に開拓し、三日月形の水田が1004枚並んでいる。千枚田の語源は「千枚=たくさんの田」という説の他に、「狭い田」の音から来ているとも言われる。
その説の通り、白米千枚田の一枚の耕作面積は非常に狭い。水田には軽トラがかろうじて通れるあぜ道が付けられているため、何とか小型の農業機械は入れられるようだ。この日は奇しくも田植えの日で、ひとつひとつ異なる形の田に、田植機を器用に動かしながら稲を植えていた。
白米千枚田はその土地柄、土が肥えているようで、通常よりも少ない肥料で済むのだという。海風もあって、ミネラルも豊富なのかもしれない。1反(約10アール)あたり2.6石(2600合)の米が収穫できるらしい。
今回、この時期に棚田を訪れたのは、水を入れたばかりで田の表面が鏡のようになるからだ。白米千枚田は海が眼前に広がっているため、天気のいい日には光で包まれる絶景ポイントだ。太陽の動きと共にその表情を次々と変えて、ただ眺めていても一向に飽きることはない。
春だけでなく、稲が伸び盛りの夏、稲穂が付く秋、そして雪景色の冬もまた、この棚田は美しい。隊長も棚田はそれほど…と最初は言っていたが、移り変わる光にすっかり虜になった様子で、薄暮の頃までその光を熱心にカメラにおさめていた。しめしめ、これでまた違う棚田に探検に行くことができる。
この棚田の横には道の駅が併設されており、そこでは白米千枚田で収穫した米を使ったおにぎりを食すことができる。ちなみにここの棚田はオーナー制度を採用しているので、気に入った人はサポートしてあげると収穫に応じて米がもらえる。日本の棚田は生産農家の高齢化と共に、その収益性からどんどん消えゆく運命にある。美しい日本を残すためにも、少しでもサポートする人が増えるのを期待したい。
僕はそもそもオカルト的な事象が大好きなため、神頼みするのを厭わない。大槻教授に言わせれば、どんなことも科学で解明できてしまうのかもしれないが、人間が理解できないものが地球上にまだ多く残されているのも事実だ。
例えばパワースポット。凡人の僕は「ここがそうです」と言われなければおそらく気づくこともないし、「ほーら、すごいパワーでしょ」と言われると、素直にすごいんだと思い込んでしまう質だ。だから、効能などについてはあえて書かないが、能登半島の先端である珠洲岬は、日本でも3つの指に入るウルトラパワースポットと言われている。
ちなみに他の二つとは、活火山でフォッサマグナにある富士山、そしてゼロ地場で有名な長野県の分杭峠だ。そもそもパワースポットは何らかの自然の力が働いている場所だが、珠洲岬は暖流と寒流がぶつかる場所で、さら岬に向かって集まる気流やらがあるらしい。
よく分からないが、まあ身体には良さそうな感じである。ちなみにこの岬は1970年ごろまで、江戸時代からの廻船問屋だった刀禰家(とねけ)の土地だったようで、他の人は立ち入ることができなかった。
1650年ごろの当主・刀禰四郎右衛門は、ここに望気楼という祠を建てて、その中に入って自然パワーを得ていたという。嘘か誠か刀禰四郎右衛門は金色に輝いたり、透明人間になったりできたというから、そんなパワーが得られるなら他人には教えたくないのも仕方がない。
現在は誰でも訪れることができて、入場料を払えば、スリリングな空中展望台や岬まで入ることが可能だ。空中展望台というのがなかなかの場所で、岬から見える絶景の中で浮いているような錯覚を覚える。
下には旅行番組や雑誌などで度々紹介されている「ランプの宿」が建っているが、展望台と宿の経営者は同じらしい。ということは、刀禰四郎右衛門の子孫なのだろうか。ランプの宿といい、空中展望台といい、なかなか独創的な経営者のようだが、その発想力もやはり珠洲岬の御利益なのかもしれない。
おそらく読者諸兄の中にも城郭マニアがかなりいると思う。僕も詳しくはないが、昔から城郭や城下町に行くのが大好きだ。城の魅力は、何と言ってもそのダイナミックさ、そして無常さだ。明治時代まで、日本には大名という武士の頭領が各地域にいて、それぞれが巨大な居城を持っていたのである。
江戸期にはひとつの国にひとつの城と武家諸法度で決められてしまったから、それ以前にはさらにたくさんの城が全国にあったのである。それが江戸時代に一国一城、明治になると廃城令が出され、かつてはその威容を誇った城は“夢の跡”になってしまったわけである。そこが何とも切なくていい。
さて今回の探検で、七尾城はひとつの目玉であった。この探検に出る数日前にも笠間城と土浦城を探検していたため、テンションは相当上がっていた。ただ、たまにさほどの遺構もない場合もある。今回は果たしてどうかと、隊長とわくわくしながら七尾市内から城山を登った。
七尾城は城山の尾根に造られた連郭式の山城だ。七尾城は能登国の守護だった畠山満慶が、1400年代初頭に造ったとされている。当初は簡単な砦だったようだが、代を追うごとに増強されていったという。七尾城の名前は「松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾」という7つの尾根あった7つの郭の名前から来ているらしい。
果たして隊長と城内に入ると、雄壮な杉木立の中に野面積みの石垣がしっかりと残っていた。各郭には案内の看板と礎石らしい岩が残るのみだが、段々に整地された曲輪の敷地や石垣は、雲海の城・竹田城にも劣らないダイナミックさだ。
美しい石垣を眺めながら、石段を登って本丸跡に向かう。本丸は神社と広場になっており、そこから見える七尾市街と海のパノラマもまた絶景だった。昔は他の郭の周囲の木々も伐っていただろうから、城全体から下界が見渡せたのかもしれない。
七尾城は1577年に上杉謙信に攻められる。時の城主・畠山春丸王はまだ年若く、重臣同士の深刻な対立をおさめることができなかった。そのため、遊佐続光が謙信側に内応し、七尾城はあっけなく陥落することになる。遊佐が七尾を治めるも、織田信長の所領となって前田利家が入城。だが、政務に便利だった七尾市内の小丸山城に移ったため、七尾城は廃城となる。
山深い場所にあったため、城の遺構は荒らされることなく現代まで残った。かつてここでもののふが生き生きと動き、そしてまた行く年月が流れて山野に戻ったことを考えると、人間の営みとは何ともおもしろいものだと思ってしまうのである。
七尾城を後にした探検隊は、再び東京への長い帰路に着いた。能登半島はかつて交通の便が悪かったことで、逆に貴重な自然や文化が残ってきたのかもしれない。2本の高速道路で突端までスピーディにアクセスできるようにはなるが、豊かな能登がどのように変貌していくのか、ちょっと心配ではある。願わくば「やさしや」と謳われたその風土までは失わないでほしいと切に願うのである。
ということで、ご愛読いただいている「日本再発見ジムニー探検隊」は、次回よりシーズン3に突入! 毎度毎度マニアックなテーマにお付き合いいただきまして、感謝の念に堪えません。さらに素晴らしき日本を発見できるように努力しますので、引き続きよろしくお願いいたします。次回は「海軍の街・横須賀」を探検、お楽しみに!
<文・写真:山崎友貴>