今から70年前の4月7日、
長崎県男女群島女島の沖合に大日本帝国海軍連合艦隊旗艦、戦艦大和が沈没した。
偶然にも我々、ジムニー探検隊の3人は4月8日に
大和の母港であった呉を目指して旅だったのである。
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東京から西へ約800km、JB23と43の2台は呉へとひた走った。今回の探検には、ほぼ1年ぶりに河野隊長と山岡“巨匠”カメラマンが参加。フルメンバーでの旅となった。奇しくも昨日は、呉を母港とした戦艦大和が激戦の末、轟沈した日である。偶然にもアピオの展示会が広島市内で開催されることもあり、今回の呉行きとなったのである。幼少時代、雑誌「丸」とウォーターラインにどっぷりハマっていた隊長と僕を呼んでくれたのかもしれない。
JB23はマニュアルだったため余裕の走りだったが、JB43は排気量が大きいのにも関わらずATによるパワーロスが多いため、若干長距離ドライブは疲れる。特に今回は高速道路で500km以上の移動とあって、JB23のMTの秀逸さが目立った。アピオのサスペンションとレカロ製シートのお陰で披露が抑えられたが、ノーマルだったらきっと困憊だったろう。
隊長と山岡巨匠のジムニーを追いかけながら、ひとり考えていた。「なぜ呉に日本でも有数の軍港を作ったのだろうか」と。呉には律令制時代から集落があったようだ。奈良時代には、呉の沖合にある(今は架橋されクルマで行ける)倉橋島において、遣唐使船が造られたという記録が残る。また平清盛は同じく倉橋島の音戸の瀬戸を開削して、明との貿易拠点にしたのだという。
ぜひここで呉の地図を検索していただきたい。比較的開けた広島に対して、呉は江田島や倉橋島の陰に隠れるようにある小さな入江のような場所だ。実際、明治に入るまで呉は「呉浦」と呼ばれる小さな海沿いの村で、これと言って重要な場所ではなかった。
ところが明治になると、西本州と四国を防衛するために第二海軍区鎮守府の設置が計画され、その予定地として呉と三原が選ばれた。第二海軍区鎮守府は軍艦の修理と乗組員の保養が重要とされたため、内海で造船所が造りやすく、また湾の入口が狭く背後が山に囲まれている防御地形が適しているとされた。3年にわたる測量の結果、明治19年に呉に鎮守府が置かれることとなったのである。
明治36年には海軍工廠が設立され、膨大な国家予算と5年の歳月をかけて呉は日本有数の軍港として生まれ変わった。以後、終戦までの60年間、呉は海軍の町として栄え、軍人のみならず海軍工廠に職を求める一般人も全国から押し寄せたという。呉海軍工廠では戦艦大和をはじめ、長門や重巡洋艦の愛宕、那智など名だたる日本の軍艦が造船されている。
終戦後は重要港湾指定を受け、貿易港としてだけでなく、鉄鋼・造船・機械などの工場が建ち並ぶ工業港として重要な役割を果たしている。街を走るとどこにでもある地方都市の風情だが、海へ出るとその印象は変わる。民間船に混じって、多くの海上自衛隊護衛艦が係留されており、未だ呉は軍港としての側面がなくなっていないことが理解できる。
いろいろなご意見があるとは思うが、やはりミリタリーに興味を持つ者としては、横須賀以上に心が躍ってしまう空気感を呉は持っているのだ。
呉はあいにくの雨空だったが、周囲の山々の新緑がしっとりと濡れて、一層目に鮮やかだ。晴れの港は気持ちがいいが、雨の日のほうが“らしい”雰囲気が漂っている。特にグレーの軍艦は、雨によってより海に馴染む気がするのは僕だけだろうか。
この探検の最大の目的は、これから訪れる「大和ミュージアム(呉市海事歴史博物館)」だ。戦艦大和のことは、いまさら多くを語るまでもないと思うが、念のためおさらいを。
日本を含む列強は、ロンドン海軍軍縮会議において巡洋艦以上の海軍の艦船保有を制限する条約を締結した。だがその条約が失効する1年前の昭和9年、失効と同時に西洋列強が大型艦を建造することが予測されたため、日本も対抗すべく18インチ砲を搭載する巨大戦艦の建造を計画した。これが大和、武蔵のいわゆる大和型戦艦だ。
当時の日本帝国海軍の中には、すでに航空主力を唱える人物もいたが、結局巨艦主義に押し切られる形で建造が始まった。だが、2隻の大和型戦艦は欧米の対抗策を恐れて超トップシークレットとされ、日本国民にも秘匿された。8月8日の進水式も秘密裏に行われており、国民の多くは開戦まで連合艦隊旗艦だった長門、そして同型艦である陸奥が日本最大の軍艦だと思っていたのである。
航空戦力での奇襲となった真珠湾攻撃によって、奇しくも日本海軍が大型戦艦が不要であることを実証してしまった。レイテ沖海戦以外では大和はさしたる活躍をすることはなく、駆逐艦乗員が大和の大きな風呂に入るために横付けしたため、「大和ホテル」などと揶揄された。航空主力派の軍人には「世界三大無用の長物、万里の長城、ピラミッド、戦艦大和」となどと陰口を叩かれる始末だったという。
そうこうしている間に戦局は悪化。大東亜戦争末期になって大和は菊水一号作戦という海上特攻に借り出され、米軍の圧倒的な航空戦力による雷撃と爆撃によって、ついに最期を迎えるのである。航空機が主体となる時代に遅れてやってきた巨大戦艦の、まさに象徴的な終わり方だった。
大和の火柱やキノコ雲は遠く鹿児島から見えたとか、徳之島で目撃されたなどという伝承が残るが定かではない。3000余名の乗組員と共に、海底深くに沈んだ大和だが、昭和60年7月に長崎県男女群島海域の海底で発見された。現在でも大和を引き揚げようという運動があるようだが、生き残りの乗組員たちには微妙な感情もあるようだ。
沈んでから今年で70年目を迎える大和だが、その人気は衰えることはない。戦争という狂気の中に生まれた艦でありながら、なぜそこまで日本人を惹きつけるのだろうか。生まれながらにして滅びの運命を背負っていただけでなく、どの戦艦にもない美しいフォルムと日本の素晴らしい造船技術が感じられるからなのではないだろうか。
この呉市海事歴史博物館は、靖国神社遊就館のように展示からイデオロギーが感じられるわけでもなく、また戦争を美化しているわけでもない。呉という土地が生んだ様々な海軍兵器を、テクノロジーという側面から見ようという主旨が感じられる。これはいいか悪いかは別としてだが、他の国内の戦争博物館と比べると、幾分か楽な気持ちで観られた。
中に入ると平日の開館直後だというのに多くの来場者がいる。驚きなのは、中国や韓国からの客も多くいたということだ。入口でチケットを出すとすぐに、大和ミュージアムの目玉である1/10スケールの大和が展示されている。1/10と言っても、近海で操業する漁船くらいはある超ビッグモデルだ。これを個人が寄付したというのだから、また驚きである。
「確かに大きいけど、いまひとつ大きさがピンとこない」という向きは、大和ミュージアムの前にある公園に行っていただきたい。ここの地面のタイルには、大和の実際の大きさを示す線が描かれている。船首を摸したオブジェを頭に、甲板や砲塔、艦橋などが造られていて面白い。こんなに大きいのかと実感できるはずだ。
この博物館では大和だけでなく、日本が造った様々な兵器のテクノロジーが展示されている。特攻兵器回天の試作型や特殊潜航艇・海竜、零戦六二型などが良好な状態で観ることができる。いまからもう1世紀近く前に日本がこうしたテクノロジーを開発し、悲劇的な戦争を乗り越えて現代に生きているということ。この博物館を観ているとそれが分かり、おのずと戦争という行為の愚かさが認識できる素晴らしい展示内容になっている。
前でも書いたが、現代の呉は海上自衛隊の町でもある。中心街を走っていると、制服を着た自衛艦をよく見かけるし、海沿いに行けば護衛艦がわんさかいる。横須賀でも護衛艦は珍しくないが、呉はそれとの距離が恐ろしく近い。呉中心街からクルマで10分ほど走った場所に、「アレイからすこじま」という公園がある。ここは、日本で唯一、間近に潜水艦が観れる公園なのだ。
春の雨が静かに降るなか、ジムニーを公園の駐車場に駐めて5分ほど歩く。坂道を下りるとすぐに、潜水艦が見えてくる。隊長も僕も大興奮である。呉には海上自衛隊第一潜水隊群があり、9隻の潜水艦が母港としている。ディーゼル潜水艦のおやしお型が5隻と、スターリングエンジンを採用した最新鋭のそうりゅう型が4隻だ。この内、数隻は大抵はここに停泊しているようである。
実は日本の潜水艦技術というのは、かなりの高水準にある。日本は大戦中から伊号をはじめとする潜水艦を多く製造しており、戦後、アメリカはその技術の一部を研究したと言われている。現在、多くの先進国の潜水艦は核弾頭を搭載した原子力潜水艦だが、ミサイルを搭載する技術は伊400型を参考したと言われる。
敗戦によってその技術は一時失われたが、日本は1959年に国産ディーゼル・エレクトリック潜水艦「おやしお(現在のおやしお型とは異なる)」を進水させた。これは伊号の技術をベースに製造したと言われている。以降、国産潜水艦は目覚ましい進歩の道を歩み、水中の航行時間を除けば、原子力潜水艦に負けない能力を有している。
さて、ここで簡単に潜水艦の仕組みについて触れておきたい。潜水艦自体はアメリカ南北戦争時代からあるのだが、ディーゼル・エレクトリック潜水艦が盛んになったのは第一次世界大戦で登場したUボート以降であろう。潜水艦は海上ではディーゼルエンジンでスクリューを回して進み、同時に発電機としてバッテリーを充電する。水中に入ったら、音の出ない電動モーターのみで進むわけだ。
ただしバッテリーは途中でなくなるので、再び充電が必要になる。通常ならば海上に浮上してエンジンを回して充電すればいいのだが、敵が海上にいる場合はそうはいかない。仕方がないので水中でディーゼルエンジンをかければ、空気は使うし、排気ガスも出てしまう。最近はシュノーケルを装備しており、これで吸排気をするのだが、それも近くに駆逐艦や対潜哨戒機がいない時に限る。
つまり、潜水艦はずーっと潜っていられた方がいいのである。そこでアメリカやロシアなど先進国の一部は排ガスの出ない原子力を、潜水艦の動力源にしたのである。原子力潜水艦は原子炉で水蒸気を発生させ、その水蒸気でタービンを回して推進する。原発と同じだ。だがこうした非大気依存推進システム(AIP)で原子力を使える国は限られている。
そこで日本がAIPとして取り入れたのが、スターリングエンジン。スターリングエンジンとはシリンダーの中に入ったガスを加熱と冷却を連続して繰り返し、ガスの体積の変化によってシリンダーを動かすエンジンである。このエンジンの利点は排気ガスを出さないということ。つまり。海中でバッテリー切れになっても、スターリングエンジンで充電・推進することができるわけだ。スターリングエンジンを採用したそうりゅう型はおやしお型よりも長い時間、潜行していられるという。
だがスターリングエンジンは騒音がうるさいという弱点があり、日本は潜水艦への燃料電池の採用を考えていたが、水素を吸着させる水素吸蔵合金の開発が芳しくなく、将来的にはそうりゅう型のスターリングエンジンを外して、日本に一日の長があるリチウムイオン電池を搭載することで長期間潜行を可能にしようとしているようだ。
ご存じの通り、日本の潜水艦技術はオーストラリアなど海外から引き合いが来ており、近い将来にメイド・イン・ジャパン印がまた一つ増えそうだ。そんな目で潜水艦を眺めていると、少々誇らしい気持ちになってくる。潜水艦のスクリュー技術も日本は進んでおり、そういったテクノロジーはここ呉から生まれたのである。
ちなみにアレイからすこじまには、戦時中に魚雷を積むのに使われた古いクレーンがオブジェとして残されており、こちらも興味深いのでぜひご覧いただきたい。
アレイからすこじまから、ジムニーを5分ほど走らせた高台の一角に「歴史が見える丘」という小さな公園がある。住宅街の中にある、見た目は別段特徴のない公園だが、ここは実に呉らしい場所だ。公園を抜けて接続されている横断橋を渡ると、そこからは造船ドックを一望できるのだ。
関東では東京や横浜に造船所があるが、このように上から造船や修復を見ることはかなわない。造船に秘匿があるのかどうかは分からない。護衛艦もここジャパンマリンユナイテッド呉事業所に入るようなので、これでは丸見えで困るのではないか。この日も偶然に護衛艦が建造中だったが。
僕らは物見遊山で来ているので、この眺望は最高だ。ここからは2本のドライドックが見えるが、実はもうひとつドックがあった。右の写真の一番左に建屋があるが、この下に昔はもう1本ドックがあったという。そのドックこそ、大和を建造した場所だ。いまは埋め立てられ、中は部材倉庫として使われているようだが、この建屋の骨組みは何と大和を建造した当時のままらしい。最初に建屋を見た時に、壁に「大和のふるさと」という看板が掲げられていて何のことだが分からなかったが、そういうストーリーがあったわけである。
公園に戻ると、いくつかの記念碑が建っているのに気づいた。まずひとつは「噫(ああ)戦艦大和塔」。1969年の第30回大和進水日を記念して建てられたものだ。塔は大和の艦橋を摸したデザインとなっており、門のように46cm主砲の徹甲弾が飾られている。
塔には3枚の碑が埋め込まれており、それぞれに由来、性能、戦歴が刻まれている。映画「男たちの大和」公開直後は、大変な人気スポットになったようだが、いまはブームが終わったせいか訪れる者も少ない。
その隣には、石段のようなものがある。この石段は、埋め立てられてしまった旧呉海軍工廠造船船渠の一部だったものだ。ドックの石壁を使い、ドックの底へと下りる階段を再現したものなだという。つまり、この石は大和を見ていたということだ。
また奥には旧呉海軍工廠造船の礎石なども碑となっており、その昔、ここに海軍の造船所があったことを教えてくれる。平和な時代になった今は公の目から逃れることもなく、堂々と船が造られ、修復されている。ここに一枚の有名な写真がある。大和は3度の大改修を受けているが、最終艤装の様子を写したものだ。
呉の海軍工廠の埠頭での様子だろうか。
甲板には掘っ立て小屋のようなものが建てられ、何となくのんびりとしている。だが、この後に不本意な特攻作戦にかり出されて、3000余名の命と共に海の藻屑となってしまったのである。工業製品はあくまでも工業製品のまま、その寿命を終える。そんな時代が永く続くことを祈らずにはいられない。
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