東京から西へ約800km、JB23と43の2台は呉へとひた走った。今回の探検には、ほぼ1年ぶりに河野隊長と山岡“巨匠”カメラマンが参加。フルメンバーでの旅となった。奇しくも昨日は、呉を母港とした戦艦大和が激戦の末、轟沈した日である。偶然にもアピオの展示会が広島市内で開催されることもあり、今回の呉行きとなったのである。幼少時代、雑誌「丸」とウォーターラインにどっぷりハマっていた隊長と僕を呼んでくれたのかもしれない。
JB23はマニュアルだったため余裕の走りだったが、JB43は排気量が大きいのにも関わらずATによるパワーロスが多いため、若干長距離ドライブは疲れる。特に今回は高速道路で500km以上の移動とあって、JB23のMTの秀逸さが目立った。アピオのサスペンションとレカロ製シートのお陰で披露が抑えられたが、ノーマルだったらきっと困憊だったろう。
隊長と山岡巨匠のジムニーを追いかけながら、ひとり考えていた。「なぜ呉に日本でも有数の軍港を作ったのだろうか」と。呉には律令制時代から集落があったようだ。奈良時代には、呉の沖合にある(今は架橋されクルマで行ける)倉橋島において、遣唐使船が造られたという記録が残る。また平清盛は同じく倉橋島の音戸の瀬戸を開削して、明との貿易拠点にしたのだという。
ぜひここで呉の地図を検索していただきたい。比較的開けた広島に対して、呉は江田島や倉橋島の陰に隠れるようにある小さな入江のような場所だ。実際、明治に入るまで呉は「呉浦」と呼ばれる小さな海沿いの村で、これと言って重要な場所ではなかった。
ところが明治になると、西本州と四国を防衛するために第二海軍区鎮守府の設置が計画され、その予定地として呉と三原が選ばれた。第二海軍区鎮守府は軍艦の修理と乗組員の保養が重要とされたため、内海で造船所が造りやすく、また湾の入口が狭く背後が山に囲まれている防御地形が適しているとされた。3年にわたる測量の結果、明治19年に呉に鎮守府が置かれることとなったのである。
明治36年には海軍工廠が設立され、膨大な国家予算と5年の歳月をかけて呉は日本有数の軍港として生まれ変わった。以後、終戦までの60年間、呉は海軍の町として栄え、軍人のみならず海軍工廠に職を求める一般人も全国から押し寄せたという。呉海軍工廠では戦艦大和をはじめ、長門や重巡洋艦の愛宕、那智など名だたる日本の軍艦が造船されている。
終戦後は重要港湾指定を受け、貿易港としてだけでなく、鉄鋼・造船・機械などの工場が建ち並ぶ工業港として重要な役割を果たしている。街を走るとどこにでもある地方都市の風情だが、海へ出るとその印象は変わる。民間船に混じって、多くの海上自衛隊護衛艦が係留されており、未だ呉は軍港としての側面がなくなっていないことが理解できる。
いろいろなご意見があるとは思うが、やはりミリタリーに興味を持つ者としては、横須賀以上に心が躍ってしまう空気感を呉は持っているのだ。