よく過酷な環境だとは聞くが、一度潜水艦の中に入ってみたいとかねがね思っていた。
そんな思いをかなえてくれる場所が、呉にはあるのだ。
かつては軍港だった呉だけに、そうした一面を感じさせる場所が多い。
だが今の呉をそれを隠そうとはせず、かえってオープンにしようという思惑が見え隠れしている。
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陸上、海上、航空3つの自衛隊の中で、一般人との接点がもっとも少ないのが海上自衛隊かもしれない。年に数回、基地や寄港地で護衛艦の見学会や3年に一度の観艦式があるが、各地で基地祭を開催している陸上や航空と比べると圧倒的に“閉鎖的”とも言える。
おもしろい話なのだが、旧軍時代も秘密主義の海軍に対して、陸軍は国民に広く情報を開示していた。零戦などはかなりの間、秘密兵器であったのだが、陸軍の一式戦闘機・隼などは登場後すぐに映画「加藤隼戦闘隊」に登場させて国威昂揚を狙っている。
陸軍がメディアを上手く利用したのに対して、閉鎖的な海軍は何かと国民の目から隠したという。
とは言え、現代は“国民の血税で維持している”という自衛隊の意識もあるので、昨今では様々な広報活動が行われている。そのひとつが、呉にある「「てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)」である。“てつのくじら”とは潜水艦のことで、なんとここには「ゆうしお型潜水艦」が解体することもなく、そのままで展示されれいるのである(上の写真)。
国道31号から1本はずれて海沿いの道を走っていると、思わずギョッとする光景に出くわす。なんとそこには、潜水艦がドーンと置いてあるのだ。先ほどアレイからすこじまで見た潜水艦は海に浮いていたので、喫水線から下は見えなかったが、全容はこんなに大きいのかと驚かされる。
ちなみにここに展示されているのは、ゆうしお型の7番艦「あきしお(SS-579)」。ゆうしお型は昭和50年代に10隻が建造された第二世代潜水艦で、2008年に練習潜水艦「ゆきしお」は退役するまで、約30年間も活躍した。
ちなみにあきしおは現在、建築基準法上で建物として登録されているのが笑える。
館内にはいると、入口で現役の海上自衛官が迎えてくれる。女性自衛官だと僕ら3人はテンションが上がるのだが、残念ながら水兵さんだった。2007年に開館したばかりということで、施設はまだきれいだ。
ただ埼玉県の朝霞にある陸上自衛隊広報館に比べると、屋内に入れられる装備が少ないためか、少々地味な感じがする。海上自衛隊のこれまでの歴史や活動などを展示で紹介しているのだが、正直なところちょっと飽きてしまった。もう少し装備とか我々の興味が持てる展示を、この場を借りてリクエストしておきたい。
とは言え、ここの目玉展示は何と言っても潜水艦だ。途中の展示をちょっとだけで倍速で見学して、さっそく外の潜水艦へと向かう。側に寄ると、やはりその大きさに圧倒されてしまう。777やA300など旅客機よりも胴体が太いので、なおさら大きく感じるのかもしれない。
通常は艦橋や甲板にあるハッチから出入りするのだが、この潜水艦は見学ルートが作られているので、脇の入口から入る。見学ができるのは、潜水艦のごく一部だ。発令所があるフロアで、機密となっている機関室や魚雷室などは一切入れない。
士官用のベッドなどを見学しつつ、いよいよお待ちかねの発令所へ。おお、潜望鏡などが確かにある。そこには潜水艦乗りだったらしきおじさんが2人いてガイドしているのだが、「潜水可能な深度とは?」とか肝心な質問に関しては、ほとんど「機密です」で済まされてしまった。
本当はこの発令所で河野隊長と魚雷発射ごっことかしようと盛り上がっていたのだが、質問をはぐらかすばかりのおじさんいるおかげで、それもできない。だったら、自由に見せてくれればいいんだが…と恨み言を言いつつ、あっと言う間の見学コースを終えた。
僕らは数分で外に出るが、潜水艦乗りは長い時間、外も見えない艦内で暮らすわけだ。あの空間にずっといるのかと思うと、やはり並みの神経では務まらないことが分かる。
帰る前にオススメしたいのが、1階のカフェにある潜水艦カレー。1日10食限定のため僕らは食べられなかったが、ライスが潜水艦型でカレーの海に浮かんでいるという洒落たデザイン。味は分からないが、かなり好評らしいので、機会があったら食べていただきたい。
旧呉鎮守府長官の旧公邸(ギャラリー参照)をぶらりと探検したところで、広島でイベントに出席する河野隊長とお別れ。ここからは山崎&山岡巨匠の“チーム・ピーク”で探検を続けることとなった。呉市内は一通り観て回ったので、僕らは江田島に向かうことにした。
江田島へは橋を使って行くことができるが、一度倉橋島に渡って、それから江田島に渡るというルートになる。これだけで結構な距離で、時間も小一時間ほどロスしてしまうのだ。ここで隊長が去り際に「フェリーで渡った方がいいのでは」というナイスな助言を残してくれた。なるほど、調べてみたらフェリーなら呉から20分で行ける上に、ジムニーならJB23、43ともに1000円(乗員1名の料金込み)で行ける。もう1人の分を払っても1500円以下で行けるのだ。ガソリン代と時間を考えると、間違いなくフェリーがいい。
港で待っていると、トミカシリーズのフェリーみたいなかわいい船がやってきた。乗り込み時間5分で出発という、まるで電車のようなフェリーだ。内海なので揺れることもなく、護衛艦や大きな船を眺めながらの優雅な20分間だ。
どんよりとした天気だが、それもまた旅を印象的にしてくれる要素だと思う。船を下ると、呉市内とは明らかに違う島独特ののんびりとした雰囲気が漂っていた。江田島は地理的におもしろく、地続きだが西能美島と東能美島という島とくっついている。実は江田島は能美島とは海で隔たれた独立した島だったのだが、埋め立てでくっついてしまったんだという。
ちなみに西能美島と東能美島は昔からひとつの島なのだが、なぜかふたつの島の名前が付いている。実に不思議なハナシだ。江田島の主幹産業は牡蠣の養殖、ミカン栽培、造船、花栽培、漁業。中でもむき身の牡蠣生産量は全国2位なんだとか。
さて、今宵は能美島にある「能美海上ロッジ」に泊まる予定だ。ちょっと古い国民宿舎なのだが、海の上に浮かぶように建てられているのが面白くてチョイスしてみた。着いた時には雨も強く、5時とは思えないくらい暗かったのだが、部屋のベランダからどどーんと海が望めて、なかなかいい宿だ。
ご飯も悪くない内容で、この辺りで穫れる新鮮な魚介類がテーブルの上に並べられる。食事もさることながら、山岡巨匠と僕が最も感動したのは、ここのお風呂である。
風呂は天然温泉で、泉質は含弱放射能塩化物泉。なめるとすごくしょっぱい。最初に浴槽を見た時は「温泉ってバスクリンかよっ」と思ったくらい鮮やかな緑色で、温泉をたくさん取材してきた山岡巨匠もこんな湯は見たことがないという。
湯はとろみが強く、肌が磨かれていく感じがする。しかも身体の温まり具合がすごい。その夜は大汗をかいて寝たくらいのパワーだった。
ちなみに能美海上ロッジの横には日帰り温泉「シーサイドのうみ」があり、宿泊者はそこも利用することができる。僕らは時間の都合で入れなかったが、そちらには露天風呂もあるようだ。
この温泉は本当に名湯なので、呉市内に泊まる場合でもぜひ日帰り入浴施設に立ち寄って入っていただきたい。
能美海上ロッジの前には穏やかな江田島湾が広がっている。内海なので湖のように静かで、遠くに牡蠣の養殖イカダが見えて、なんとものんびりした時間が流れている。
だが1945年のこの海で、ある軍艦が米軍機の攻撃を受けて沈んだ。重巡洋艦利根である。
利根は利根型重巡洋艦の一番艦で、1937年に進水した。ちょっとマニアックなネタだが、重巡洋艦なのになぜ山の艦名じゃないかというと、利根は当初は最上型軽巡洋艦の七番艦として計画され、重巡になっても名前だけは残ってしまったからだ(軽巡洋艦は河川の名前)。
利根は太平洋の緒戦でかなりの活躍をした後、呉に戻って海軍兵学校練習艦として退役までの時間を過ごすはずだった。ところが1945年に三度にわたる攻撃を受け、江田島湾で6発の爆弾を被弾したことが原因で大破着底。そのまま終戦を迎えた。最期の攻撃で136名の乗組員が犠牲になっている。
戦後、利根は鉄不足のために解体されてスクラップになったが、能美海上ロッジ前の海に着底したことから、慰霊碑と資料館が建てられている。資料館には利根の装備や、乗組員にまつわる品が展示。今はかつて戦争があったなどと想像できないほどの穏やかな海だが、確かに日本で戦争があったのだと、改めて思い知らされた。
最近はそのイメージも薄れてつつあるが、ある世代にとって江田島と言えば、海軍兵学校を意味する地名だった。海軍兵学校は海軍士官を育成するための学校だ。勝海舟や坂本龍馬が創設した神戸海軍操練所や長崎海軍伝習所が源流となっている。
明治に入ると東京・築地に海軍兵学校が創設された。だがあまりに都心に近く、生徒が遊興に耽るという問題が出てきたために、移転を余儀なくされた。ちなみに銀座に「みゆき通り」という道路があるが、これは明治天皇が築地の海軍兵学校まで行幸したから名付けられた。
移転の条件としては「軍艦が停泊できる入江がある」「教育に専念できる環境」「温暖な気候」であった。その条件に合致したのが、江田島である。江田島海軍兵学校は海軍ではエリート中のエリートで、「貴様と俺とは〜」の歌にもあるように、同期は強い絆で結ばれていたという。映画「海軍兵学校物語 あゝ江田島」が、その様子をよく描いている。
終戦で江田島海軍兵学校は閉鎖されたが、1956年になると横須賀にあった海上自衛隊術科学校が江田島に移転。1958年に海上自衛隊第一術科学校に改称されて現在に至っている。術科学校は第一から第四まであり、それぞれ場所と教える内容が異なる。
・第一術科学校(江田島):機関を除く水上艦艇術科教育
・第二術科学校(横須賀):機関や語学などを教育
・第三術科学校(下総):航空機関連教育
・弾四術科学校(舞鶴):業務関連や補給などの教育
すべてを習得させるのはなく、それぞれのエキスパートを育成するという、実に合理的な教育方法である。ちなみに江田島には幹部候補生学校もあり、これは旧海軍兵学校の流れを汲むエリート校だ。
江田島第一術科学校には現在も旧軍時代に建てられた歴史的建造物が多く残っている。この学校は一般公開されており、無料のガイドツアーを楽しむことができるのだ。
ガイドツアーへの参加は、正門の守衛所で名前と住所を記帳するだけ。時間になるまで待合室で待機していると、退役自衛官らしくおじさんが校内をおもしろおかしく案内してくれる。ちなみにこのツアーは大変な人気で、アメリカの「トリップアドバイザー」の日本の無料ガイドツアーの部門で3位に入る人気ツアーだ。
この日は幹部候補生の外出日らしく、制服できめた若い自衛官が足並み揃えて出ていく。女性自衛官の姿も見えるが、ガイドのおじさんによると熾烈な競争率を勝ち抜いた大変なエリートなのだそうだ。
さすが“海軍”の学校だけあって、校内はチリひとつ落ちていない。砂の部分にはきれいにホウキ目が付けられており、きっと毎朝生徒たちが清掃をしているのだろう。ツアー開始からすぐに大講堂が見えてくる。大正6年に建築された鉄骨レンガ造りの立派な建物で、外壁には花崗岩が使われているのだという。
内部も実に威厳のある造りで、ここでNHKドラマ「坂の上の雲」のワンシーンが撮影されている。東日本大震災のあった2011年だけを除いて、毎年ここで生徒たちの卒業式が行われているという。
講堂を出ると、隣には赤レンガと呼ばれる旧海軍兵学校生徒館がある。この建物は映画にも出てくるので、よく覚えている。江田島の顔と言ってもいい建築物だ。現在は幹部候補生学校庁舎として使われている。
さて僕が非常に楽しみにしていたのが、赤レンガの裏にある教育参考館だ。昭和11年に建設されたギリシャ様式の建物の中には、戦前の約16000点の資料が収蔵されている。資料は勝海舟直筆の書や有名な軍人の遺品、特攻隊員に遺書などである。
また古い映画にも出てくるのだが、ここには東郷平八郎、ネルソン提督、山本五十六の遺髪が祀られている。ネルソンは18世紀のイギリス海軍の提督だが、一体どうのような経緯で遺髪が日本に? と思って調べたら、日露戦争の日本海海戦で勝利したことを祝い、イギリスが日本にくれたらしい。ちょっと不思議なエピソードである。
展示物は海軍から引き継いだだけあってどれも一級品だが、やはり戦争の罪を感じさせる物ばかりである。ある意味、靖国神社遊就館よりもすごい。だがここを訪れる幹部候補生は一体、どのような気持ちでこれを観て、その後どんな気持ちで軍隊生活をおくるのだろうか。
ここで見学ツアーは一通り終了だが、校内には訓練用に移設された戦艦陸奥の主砲や高松宮の宿舎など、貴重な文化財がわんさかある。残念ながらそれらは通常は一般公開されていない。
ツアー終了後はPXなどがある江田島クラブで、伝統の海軍カレーを食べてみた。具などほとんど入っていないシンプルなカレーだが、ルーが実に上手い。横須賀の回でも書いたが、海軍がカレーを食べる習慣になったのは、艦長から一兵卒まで同じものを食べて連帯感を強めるのと、艦内での栄養改善という2つの意味があった。
よく「金曜カレー」というが、金曜日にカレーを食べるようになったのは週休二日制導入の後で、それ以前は旧軍時代も含めて「土曜カレー」だった。ちなみに週末にカレーを出すのは洗い物がラクだからで、上陸を控えている兵士たちの負担を少なくするということだったらしい。よく曜日感覚が狂わないように…という説明されるが、それは後付けだったようだ。
呉市内では22店舗で、呉基地所属の護衛艦ごとのカレーが食べられる。護衛艦の調理員直伝のレシピらしい。聞いたハナシだが、どこの艦のカレーが美味しいという話を聞くと、負けず嫌いの艦長だとそれを追い越す味を作るように調理員にハッパをかけるらしい。
江田島で呉の探検は終了だが、実に海軍どっぷりの2日間だった。明治以降、海軍で潤ってきた呉は平成の世でもやはり、海軍の影響が色濃く残っている。だがこうした雰囲気を楽しめるのも平和ゆえで、これが戦時下だったら…とどうしても考えてしまうのである。ただ、軍事には何の関係もなく生きている日本人がほとんどであり、こうした場所を訪れることで改めて戦争というものを考え直すのも悪いことではないと思う。
さて、ジムニー探検隊はさらに広島県を探検。次回は鞆の浦を訪れる。
<文/山崎友貴、写真/山岡和正、山崎友貴>