鞆の浦は広島県福山市にある。福山市は大きな2本の河川に挟まれた扇状地だが、西にある芦田川を渡ると、平地から熊ヶ峰という山へと地形が変わる。この山をぐるりと回り込むようにして走ると、まるで隠されているかのように鞆の浦の小さな町があるのだ。
鞆の浦の歴史は実に古く、何と飛鳥時代に編纂された万葉集には、当時は「鞆」と呼ばれた当地を歌った和歌が7首も残されているのだという。南北朝時代になるとこの辺りで何度も合戦が起きており、戦国期には要害の地形を活かした鞆城が毛利氏によって築かれた。以後、江戸時代には本格的な城が築かれ、幕末まで親藩として栄える。
小さな鞆の浦が栄えていたのには、潮待ちの場所であったというファクターもある。瀬戸内海の海運においては、17世紀中頃まで「地乗り(じのり)」という山陽沿岸を航海するのが主流であった。地乗りは潮と風の流れに乗って船を進ませるため、潮待ちのための港が多くできたのである。鞆の浦もそのひとつで、近隣には尾道や笠岡などが潮待ちの港であった。
瀬戸内海の海流は、満潮時に豊後水道や紀伊水道から流れ込む。そして瀬戸内海のほぼ中央にある鞆の浦の沖でぶつかり、ここを境に東西に分かれて流れ出していく。そのため、瀬戸内海を横断するには、潮の流れが変わるのを鞆の浦で待たなければならなかったのである。
ところが17世紀以降になると島嶼部を縫うようにして航海する「沖乗り」が主流となり、近辺の港湾拠点は尾道へと移っていった。
明治以降の近代に入ると、鉄道が主流となって航路はますます衰退。特に鞆の浦のような半島の先端にある町は開発がしづらく、時代の波に取り残されてしまったのである。だが、今となってはこの地形こそが、今の風光明媚な鞆の浦を“守った”と言ってもいいだろう。