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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.070
時が編んだ町[鞆の浦]

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時が編んだ町[鞆の浦]

鞆の浦を歩いていると、至るところに幕末という時代の足跡が残る。
坂本龍馬、海援隊、三条実美ら五卿…。
路地を曲がれば、今にも彼らが現れる、そんな空気感に溢れている。

画像をクリックすると拡大します。

江戸時代の港湾施設がそのまま残る

港に残る雁木は江戸時代に造られたもので、通称保命酒雁木と呼ばれている。

鞆の浦は江戸時代の港湾施設の数々が、今もそのままで残っている全国で唯一の場所である。海辺に出るとまず目を惹くのは、美しく幾何学模様を描く石段だ。

これは「雁木(がんぎ)」と呼ばれる船着き場だ。階段状になっていることで、潮の満ち引きに関係なく船を着けて荷役ができるわけである。雁が飛ぶ様に似ているからこの名前が付けられているのだが、どの辺が似ているのか、ちょっと僕には理解できなかった。

この雁木はよく出来ていて、満潮時は最上段、干潮時は最下段になるように設計されている。雁木の上には船繋ぎ石が並んでいるが、これは明治から昭和にかけて造られたものだという。

港の突端には、鞆の浦の象徴とも言える常夜灯が立っている。常夜灯は港の入口を示す灯台で、現在残っているものは1859年に建てられた。竿柱の南側には「金比羅大権現」、北側には「当初祗園宮」の額が掲げられており、海の守護神に寄進した灯籠ということになっている。

現在は中に電灯が入っていて、夜になると往時の雰囲気を味わうことができるが、昔はニシンの油で灯していたらしい。

1842年に完成した波止場。立派なので現代のものと錯覚するほどだ。
港沿いに南に歩いていくと大可島に出るが、そこに長い波止場が見えてくる。石積みの立派なもので「風情があるなぁ」と思っていたら、これも江戸時代に造られたものだと分かった。 鞆の浦はもともと、大可島や明神岬、玉津島といった天然の波戸がある良港として知られていた。ところが大可島まで埋め立ててしまったことで港の海底に土砂が堆積して浅くなり、自然の波戸では台風被害を防ぎ切れなくなってしまったのである。そこで造られたのが、この波止場だ。 まず1791年に現在よりも短い波止場を建造。1810年に当時の鞆奉行だった下宮左門が莫大な予算をかけて、修理と延長を行い、1824年にようやく完成した。ちなみにこの工事を担当したのは工楽松右衛門という事業家・発明家だ。 工楽松右衛門は木綿を使った頒布を発明した人で、択捉や函館にドックの建造なども行った。工楽松右衛門は1812年に亡くなっているので、完成した波止場を見ることはなかったようだ。 波止場の脇には魚の加工工場が建ち並んでいるが、崖の斜面に沿って建っている一軒の家がある。見るとウッドデッキなどもあってモダンな感じも見受けられるが、実はこの建物は江戸時代の船番屋だったところである。 もちろん建物は昭和30年に建て直されたものだが、土台の石垣は創設当時のままだ。船番所は江戸の初めに最初の鞆奉行が造ったと言われ、ここから鞆の浦の港に出入りする船を見守っていたという。

鞆の浦を舞台に起こった日本初の海難事故審判

いろは丸資料館には、1989年に海中20mで発見されたいろは丸の様子が再現されている。
1867年5月26日、一隻の蒸気船が長崎から大阪に向けて航海していた。この船の名前は「いろは丸」。船籍は伊予大洲藩で、それを坂本龍馬率いる海援隊が借り受けて運行していたのである。 夜の23時頃、笠岡市六島付近において長崎に向かっていた紀州の明光丸と衝突。いろは丸は大破して自力航行が不能となり、明光丸に曳航されて鞆の浦へと向かった。だが結局、鞆の浦の南10km付近にある宇治島で沈没した。 龍馬たち海援隊はとりあえず鞆の浦に腰を落ち着けたが、ここから日本初の海難事故の示談が始まるのである。いろは丸は岩崎弥太郎がしきる土佐商会(三菱商会の前進)と土佐藩が積み荷を管理していたが、ミニエー銃など重火器3万6000両あまり、金塊など4万8000両あまりを積んでいたと主張。その賠償を紀伊藩に求めた。 交渉は鞆の浦のいくつかの場所で4日間にわたって行われたと言われるが、この時龍馬は万国公法を持ち出して、自分たちの操船の正当性を主張したという。日本で万国公法による海難審判が行われたのは、この事故が初と言われている。

鞆の浦探検ギャラリー

龍馬が屋根裏に隠れていた升屋清衛門宅。現在は龍馬の部屋が一般公開されている。
鞆の浦では海援隊は対潮楼に宿泊したが、この時すでに佐幕派に狙われていた龍馬は、回船問屋を当地で営んでいた升屋清衛門宅の屋根裏に隠れるようにしていたという。 紀伊藩は4日後に交渉を打ち切り、明光丸は長崎に向けて出航してしまった。龍馬は交渉を続けるべく、長崎に戻ったとされている。結局、紀伊藩は土佐藩に8万3500両あまり、現代の金額に換算すると25億円から42億円くらいになる金を賠償することで決着した。だが実際に支払われたのは7万両だったという。 ちなみに2006年に行われたいろは丸の海底調査では、銃器などは発見されなかった。つまり龍馬たちのブラフだった可能性が高い。龍馬はこのわずか6か月後に京都の近江屋で暗殺されてしまった。鞆の浦での4日間の出来事は、龍馬の短い人生のわずかな光と影であったわけである。 幕末からほとんどのその姿を変えていない鞆の浦だが、街角を歩くとき、「もしかすると、この塀の脇を龍馬も歩いたかもしれない」と思うと、特別な感慨が湧いてくるのである。
三条実美ら七卿が長州に落ちていく時に滞在したという太田家住宅。一般に公開されている。
鞆の浦には、様々な歴史的スポットが点在している。坂本龍馬関係のものだけでなく、「七卿落ち」にまつわる場所もある。七卿落ちとは、薩摩藩と会津藩が1863年に起こした「八月十八日の政変」において失脚した尊皇攘夷派7名の公家たちが、京都を追放されて長州へ落ちていったことを言う。 三条実美など7人の公家たちは、同じく京都を追放された長州藩兵に付き添われて、ここ鞆の浦に滞留した。その時、公家たちが泊まった家が何軒か残っているが、太田家住宅はいま一般に公開されている。太田家住宅は本来、保命酒を造っていた中村家のもので、公家たちはここで保命酒に酔いしれたという。 その向かいにはやはり太田家の別邸である朝宗亭があるが、ここにも七卿の一部が滞在したようである。歴史の時間に習った出来事が、こうしたリアルな建物で再認識できるというのは、実に不思議な感覚である。
鞆の浦で最も大きな神社である沼名前神社。いまから1800年以上前に創建されたとされている。
鞆の浦で最も大きな神社「沼名前神社」もまた、おもしろい歴史スポットである。この神社が創建されたのは、いまから1800余年前のこと。神功皇后が西国に向かう際に立ち寄られ、この地に社がないことを知った。そこで斎場を造り、海から湧き出た霊石を神璽として、綿津見命を祀ったという。 都に戻る際にも神功皇后は鞆の浦に立ち寄り、弓を射る時に使う武具の「稜威の高鞆(いづのたかとも)」を神前に納めた。このことから、この地が「鞆」と呼ばれるようになったのだという。つまり当地にとってこの神社は、非常に大切なものだということだ。 毎年7月第二日曜日の前夜には「お手火神事」が行われる。これは超ビッグな松明に火を灯し、穢れを払うという祭りだ。大きな火を抱えた町衆が町内を練り歩く様子はさぞダイナミックなのだろう。
沼名前神社にある能舞台は、豊臣秀吉が伏見城で愛用したもの。

海に石垣を積んで、その上にお堂を建てた阿伏兎観音。

鞆の浦の道はジムニーでもギリギリの道幅。
海援隊が紀伊藩と談判した場所は、カフェ&旅館になっている。宮崎駿氏がデザインした。
鞆の浦にはやたら猫が多い、猫好きにはたまらない町だ。
船番所の跡。下の石垣が江戸時代に造られたもの。
鞆城本丸の石垣の石。近くには石塁が残っている。
いろは丸事件に関する展示がされている「いろは丸資料館」。
海援隊が操船していたいろは丸の模型。
こちらは仙酔島とを往復する渡し船「いろは丸」。
沼名前神社のお手火神事に使う巨大な松明。
阿伏兎観音から見た瀬戸内海の眺望。
江戸、明治期の建築が、そのまま現代の生活を支えているシーンは美しい。