江田島の探検が思いの外順調だったので(vol36を参照)、せっかくだから帰りにどこか寄っていくことにした。地図をそれとなく見ていると、広島から帰京するには必ず兵庫県を通過しなければならない。そこで、ふと思いついた。「そう言えば、数日前から姫路城の一般公開が再開されてたな…」。
これまでの探検をご覧いただければ分かると思うが、実は僕は無類の城好き。で、新しもの好き。ここにいて、真っ白になった姫路城を見ないわけにはいかない。同時に、僕にはどうしても訪れたい町があった。それは赤穂だ。
赤穂と言えば、やはり塩と四十七士を思い起こすだろう。塩が元で起こったとも言われる「元禄赤穂事件」。“忠臣蔵”のエピソードとして、歌舞伎、映画、ドラマでもお馴染みの話だが、ご存じのない方のために簡単にまとめさせていただく。
時は江戸時代の元禄。2人の大名から話は始まる。1人は下野国(群馬県あたり)の殿様・吉良上野介義央、もう1人は赤穂藩主・浅野内匠頭長矩。吉良は高家旗本という家柄で、浅野は外様の小国大名だった、ちなみに高家というのは、朝廷からの勅使を迎える際の礼儀作法を教える指南役のこと。高家というのは世襲的な役職で、足利幕府時代には駿州の今川家が務めていた。吉良家はこの今川家の子孫なのである。
さて、幕府は何年に一度か朝廷勅使を迎えるのだが、その時の接待役として浅野内匠頭が任命された。浅野は吉良に教えを請いながら接待準備を進めていくのだが、度重なる吉良のいじめに遭い(と一般的には言われているが)、あることがきっかけでついに大爆発。勅使がいるにも関わらず、江戸城の「松の廊下」で、吉良の額を斬ってしまったのである。
当時の武家諸法度という法律では、“喧嘩両成敗”ということになっていたが、浅野の所をわきまえない不祥事に将軍・徳川綱吉は激怒して、大名でありながら大した取り調べもないままに即日切腹にしてしまった。当然、赤穂藩も改易となり、後先考えないボスのために何百という藩士が浪人になってしまったのである。
で、そのうちの47人だけが藩主の代わりに敵討ちをすることを決めて、散々な苦労をした挙げ句、雪の降る夜中に吉良邸に押し入り、ついに吉良上野介の首を討ち取ることに成功したのである。で、この47人も「世の中を騒がした」という騒乱罪で全員が切腹。美談だけが残ったというエピソードだ。