先日、昭和の名女優・原節子さんが亡くなったことが報道によって発表された。
原さんと言えば、長く鎌倉で隠遁生活を送っていたことで知られる。
ファンとしては、なんとなく彼の地に行ってみたくなったのである。
平日でも大層な賑わいの観光地だが、探検してみると意外な場所がいっぱい。
それでは諸兄、いざ鎌倉へ!
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我が家は何だか鎌倉好きで、年に何度かは彼の地を訪れる。砂岩質の山の囲まれた風土は独特で、多くの文化人や有名人が好むのも理解できる。かの原節子さんも、引退後は鎌倉でひと目を憚って暮らし続けていた。敬慕する小津安二郎が眠っているからという理由もあるのだろうが、目抜き通りから一歩外れると途端に静かになる土地柄ゆえかもしれない。
さて諸兄は鎌倉というと何を連想するだろうか。鳩サブレー? 江ノ電? 鎌倉と言えば、やはり幕府である。源頼朝が北条家や各地の豪族の手を借りて平氏を滅ぼし、凱旋してきたのが鎌倉。そして、後に幕府を開いたのが鎌倉である。なぜ鎌倉だったのか?
かつて鎌倉には、京都を出奔した頼朝の父である源義朝が住んでいた。元々は河内源氏と言って関西を拠点としていた源氏だったが、一説では父親との確執で京都を飛び出した義朝は、関東に軸を映してその頭角を現した。
義朝が滅んだ後、頼朝は伊豆に流されたが、伊豆の小豪族だった北条氏の力を借りて挙兵。一度は小田原の石橋山で敗走するが、房総に渡って味方を集め、わずか1か月後にリベンジを果たすのである。そして各地で平氏を破った後、鎌倉に入り、自らの館を構えるのである。
鎌倉駅から小町通りを北に向かい、途中で西に折れて横須賀線の線路を渡ると、寿福寺という古刹がある。この寺の場所に義朝の居館があったという。それ故に、頼朝も当初はここに館を築こうとしていた。ところが義朝や祖先を弔う菩提が建てられていたことや、土地が狭いことを理由に別な場所に計画を変更せざるを得なかった。それについては後ほど詳しく。
さて、諸兄は鎌倉幕府はいつできたかご存じだろうか。馬鹿にするなと怒られるであろう。ある年齢までは、鎌倉幕府は1192年にできたと教えられたはずである。「いい国(1192)造ろう、鎌倉幕府」と覚えた人は少ないはずだ。ところが2006年あたりから、実は鎌倉幕府はもっと前からあったという説が台頭してきた。それが1185年説である。
まず1180年に頼朝は鎌倉に御所を造り、そこに侍所を置いた。1183年には、朝廷が頼朝の東国支配を認めている。そして1185年、平氏を滅ぼしたことで文治の勅許が下され、頼朝に与えられた領地での守護・地頭の任免が許可されたのである。頼朝が征夷大将軍になったのは1192年なので、従来はこれが幕府ができた年とされたが、平氏から実質政権を奪ったのは1185年だから、1185年が実質の開府という理屈らしい。さらに御所を作った1180年だとか、1183年からだとか、諸説入り乱れている。
これに伴って、かつては鎌倉幕府が日本初の武家政権とされてきたが、平氏も武家だったので、鎌倉幕府は六波羅政権から2番目ということになりつつあるようだ。さらに昨今の研究では、誰もが知っている頼朝の肖像画は実は別人ということになり、もはや僕らが習ってきた歴史はグチャグチャである。
さて前述した通り、当初は寿福寺辺りに居館を造るはずだった頼朝が、結局御所を作ったのは鶴ヶ丘八幡の北東側だった。この辺りは大蔵と呼ばれ、現在も「大倉」という地名で名残が残る。現在の清泉小学校あたりである。学校の南西に、大蔵幕府跡の石碑が立っている。この西側もすべて頼朝の御所、いわゆる政所だったのである。
幕府とは、武家政権の広義的な意味で使われる言葉であると同時に、中央官庁である政所があった場所を示す。その意味で鎌倉幕府は、3度移転している。最初はこの大蔵、そして頼朝の死後に2度移転している。この歴史を調査している際に、思わぬ事実に当たった。皆さんは、鎌倉将軍は何代続いたと習っただろうか?
僕は鎌倉将軍は頼朝、頼家、実朝と3代続いて源氏が滅亡し、その後は北条氏の執権政治が鎌倉幕府終焉まで続いたと習った。つまりあたかも、鎌倉将軍は3人しかいないような教育を受けてきたのである。ところが、だ。何と実朝の死後に将軍職の体裁を保つために藤原摂家や皇族を鎌倉に招聘して、それぞれを将軍職に就かせているのだ。
実朝以降、6人の摂家将軍や皇族将軍が就き、鎌倉将軍は9代まで続いていたのである。最も、頼家以降の将軍はお飾りみたいなもので、4代からも子供の時に呼んで、成人したら退位させるという北条氏主導のやり方が続いていたようである。
さて、話を幕府に戻そう。実朝の死後、尼将軍・北条政子はしばらく大蔵御所で政務を執ったが、京都から4代将軍を継ぐ藤原頼経を呼んだのをきかっけに宇都宮に政所が移転する。妙隆寺という寺の南西にある場所だが、頼経の子供が死産だったことが原因で、北側に再び移転する。これが若宮大路幕府である。
この若宮大路幕府は滅亡まで移転することはなく、頼経の子供である藤原頼嗣(5代)、宗尊親王(6代)、惟康親王(7代)、久明親王(8代)、守邦親王(9代)がここで政務を行った。と言っても、北条氏の執権政治ではあるが。
ご存じの通り、源氏将軍はすべて非業の死を遂げている。頼朝は征夷大将軍になってからわずか7年後の1199年に、落馬が原因で死んだとされる。頼朝には暗殺説があるが、数々の修羅場をくぐった武家の頭領が簡単に落馬などするだろうか。
頼家は北条家のライバルである比企氏と接近したため、理由を付けられて修善寺に流され、風呂に入っている時に暗殺された。実朝は頼家の息子である公暁(実は“こうぎょう”と読む)に、鶴ヶ丘八幡の大銀杏脇で斬殺されてしまう。表面的には悲運な一族に見えるが、その影には常に北条氏が見え隠れするのだ。
そもそも北条氏は平氏で、頼朝の監視役だった。平氏と言っても関東平氏で、平清盛一派の伊勢平氏とは折り合いが悪かったという。その腹いせに頼朝に肩入れし、一発逆転を狙ったと見るのが理屈だ。何かと虐げられてきた坂東武者が、政権奪取を考えても不思議はない。鎌倉幕府成立後はライバルの比企氏、三浦氏、和田氏といった有力御家人を次々と根絶やしにしていった。伊豆の弱小豪族だった北条氏は、執権という事実上の幕府のトップに立ち、幕府滅亡まで我が世の春を謳歌したのである。
鎌倉を探検してみると気づくのは、多くの史跡に残っているのは源氏の紋である「笹竜胆」ではなく、北条の「三つ鱗」である。おそらく初代執権の北条時政が頼朝に味方したのも、娘の政子を嫁に出したのも、すべて後のことを考えた策略だった気がしてならない。
先ほどの大蔵幕府址の石碑から北側に数百メートルほど歩くと、白旗神社がある。明治前にはここに頼朝の法華堂があった。この法華堂には頼朝の持仏が祀られていたが、その本尊は目黒の寺に移ってしまったという。持仏は小さな観音で、頼朝が戦う時に常に髷の中に入れていたという。持仏堂はその後、頼朝の法華堂(墓所)として多くの武家の信仰を集めたが、突如消えている。記録によると江戸時代には消失していたという。
この白旗神社の横の石段を登ると、頼朝の墓がある。墓と言っても、これはオリジナルではない。現在の墓は、薩摩藩主の島津重豪(しげひで)が1778年に建てたものだ。島津の祖である島津忠久は御家人だが、実は頼朝の落胤だと言われている人だ。つまり島津にとって頼朝こそがルーツ、ということで墓を建てたのか。五輪塔を観察すると、島津の紋が刻まれているのがおもしろい。だが、この墓には頼朝の遺骨も遺髪も入っていないらしいのだ。
では、頼朝の本当の墓はどこに行ってしまったのか。いくら時代の流れがあったとしても、それだけ信仰を集めていた頼朝の法華堂が跡形もなく消えてしまったのはなぜなのか。鎌倉幕府を滅ぼした足利氏も、元を正せば源氏。跡形もなく抹殺してしまうだろうか。
墓が特定できないのは頼朝だけではない。実朝や政子の墓も特定されていないのである。
鎌倉駅の北西側に寿福寺がある。前述の通り、ここは源義朝の館があった場所だが、ここの墓地の奥にある「やぐら」がある。やぐらとは鎌倉期から室町期にかけて流行した墳墓の様式だ。鎌倉独特の砂岩質の岩に横穴を開けて、そこに五輪塔を建てる墓である。鎌倉は一気に人工が増加したが、そもそも平地が非常に少ない。だから土地を有効活用するため、こうしたやぐらが生まれたとされている。
さらにおもしろいのは、この墓は土葬ではなく火葬だということだ。土葬にするとそれだけ場所を食うし、また狭い都市だから衛生面的にも悪いからだ(仏教だからという理由もある)。何かと合理的な墓の形式なのである。鎌倉にはこうしたやぐらがたくさん残されており、幽霊トンネルで有名な小坪には大規模な墓地である「まんだら堂やぐら群」が残っている。ただ、やぐらは武士や僧など上流階級のみに許された墓だったらしい。
閑話休題。寿福寺のやぐらの中に、北条政子と実朝の墓と言われるものがある。だが、これは江戸時代に言われ出したことで、昨今ではそうではないという否定的な見方が多い。なぜなら、将軍や執権などの権力者はやぐらではなく、法華堂に埋葬されることが一般的だからだ。仮にも3代将軍の実朝と尼将軍の政子が、こんな小さなやぐらに葬られるとは考えにくい。
では、頼朝、実朝、政子の本当の墓はどこに行ってしまったのか。鎌倉幕府の黎明期のトップだった人物の墓が、どこにあるのか分からないというのは、非常にミステリーではないだろうか。ちなみに2代将軍の頼家の墓は、いまも伊豆・修善寺にきちんと残っている。さらに鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏の墓さえも、北鎌倉の長寿寺に残っているのだ(遺髪が入っている。亡骸は京都・等持院)。
鎌倉幕府も末期の1256年の冬、頼朝の法華堂の前から失火した。火は風にあおられて延焼、法華堂もすべて焼けてしまったという。これ以降、頼朝の墓所は再建されることもなく完全に歴史から姿を消した。そして政子と実朝の墓も。
すでに北条氏が弱体化していたという要因も考えられるが、時の権力者たちの何らかの力が働いたと思ってしまうのは考えすぎだろうか。まるで足利家こそが、河内源氏の正統な嫡流であり、八幡太郎義家の子孫であると示したいがために。
鎌倉は山にと海に囲まれた、防衛に実に適した地形にある。山があれば谷がある。鎌倉ではこれを「ヤツ」と呼ぶ。そして鎌倉には六十六谷(ヤツ)があるそうだ。山に囲まれているからには、平野部への出入り口が必要だ。鎌倉には「七口」といって、七ヶ所に切通しが存在している。切通しとは山の一部を削って関門にした場所のことで、この七口の切通しだけが鎌倉に出入りできる要所だった。
ちなみに7口は「朝夷名(朝比奈)」「名越」「亀ヶ谷坂」「化粧坂」「大仏」「巨袋呂(巨複呂)坂」「極楽寺坂」だ。余談だが、頼朝は亀ヶ谷坂の切通しの近くで落馬したと、記録には記されている。
巨袋呂坂切通しは車道となっているが、他は往時の様子をよく残している。切通しは軍事目的によって造られたものゆえに、通過ヶ所が狭く、馬1頭がようやく通れる幅しかないとよく言われている。たしかにそういう機能を持たされたようだが、実は全部が全部鎌倉時代のままではないことが、最近の研究で分かってきた。
鎌倉周辺の山は海底地形が隆起してできたもので、砂岩質岩でもろい。現在でもそうだが、地震や台風などの自然災害で崩落することがある。鎌倉時代からも度々崩落してきたようで、何度も人の手が加えられて現在の形になったと見られている。
また江戸時代には鎌倉観光が人気となり、オリジナルの切通しを大きく掘削してしまったなんてこともあるらしい。
左の写真は名越の切通しだが、かつては三浦氏の侵攻を食い止めるためという見方がされていた。だが近年の研究では、この場所の通行は尾根を通過するようにできていて、切通しができたのは崩落した江戸時代ではないかとも言われている。
ところで、鎌倉はよく「自然地形を活かした天然の要害」と言われ方をする。冒頭の鎌倉幕府成立年の話ではないが、これについても昨今異論が飛び出してきた。全部ではないが、場所によっては大規模な土木工事を行い、「壁」を造っているという説が出てきたのである。
だが、これはさほど驚くことでもないと思う。日本人は中世の歴史以前の自国の文化を、中国に比べると進歩が遅れていて野蛮人という捉え方をする人が多い。だから技術力も劣っているのだ、と。だが、古墳を見れば分かると思うが、1500年以上も前に、すでに優れた土木技術を有していたのである。
上空からしか分からないようなシンメトリーの形状の古墳でも、測量によって正確に造ることができた。古代の城趾を見ても、非常に計算されている。それを考えれば、鎌倉がただ自然地形によって囲まれたラッキーな場所ではないことが、想像できるのではないだろうか。
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