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日本再発見ジムニー探検隊
VOL.079
天下の嶮周遊ツアー[箱根]

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天下の嶮周遊ツアー[箱根]

今回は意外と知られていない箱根を巡る探検。
ジムニーはさらに国道1号を芦ノ湖方面へと向かう。
多くの観光客で賑わう箱根界隈には
ひっそりと佇む歴史の足跡が残っていた。

画像をクリックすると拡大します。

湯坂道に残る石仏群と五輪塔

元箱根に残っている磨崖仏「二十五菩薩」。鎌倉時代に造られたとされている。

国道1号はやがて湯坂道へとなり、元箱根へと向かう。パート1でご紹介した通り、この道は頼朝が箱根神社を参詣してから整備された道だ。その時代の名残が、国道1号沿いに見ることができる。

そのひとつが、元箱根磨崖仏だ。「二十五菩薩」と呼ばれる石仏群は、道のすぐ脇にある。ジムニーを駐められるスペースがあるので、そこから2分ほど歩いていこう。

トンネルをくぐると、目の前にある大きな岩にいくつもの仏が彫られていた。地蔵菩薩が24体、供養菩薩が1体、そして阿弥陀如来が1体と、実際には26の仏像が彫られている。本来、二十五菩薩とは阿弥陀如来の来迎に付きそう菩薩が25人いるということで、地蔵菩薩はそれに入っていないんだという。きっと数が近いことから、そう呼ばれるようになったのであろう。

石仏は1293年の奉納と彫られているようだが、最初の一体が造られてから、順次彫られていったと見られている。箱根神社の参詣道になぜ仏、と思われる向きもいると思うが、この時代は神仏習合が基本的な宗教の考え方。万人の平和を願って、こうした石仏が彫られたのであろう。道に反対にも少しだが、磨崖仏があった。

曾我兄弟と虎御前の墓と言われている五輪塔。ものすごく巨大で見る者を圧倒する。
さてこの磨崖仏のすぐ近くに、曽我兄弟の墓と言われる五輪塔がある。曾我兄弟とは鎌倉時代に父親の仇討ちをした2人のことである。 事の発端は敵である工藤祐経が、所領の不満から叔父を暗殺しようとしたことに始まる。工藤祐経の一党が放った矢は叔父を逸れ、その子息に当たってしまう。それで絶命した武士というのが、曽我兄弟の父親だったのである。 先に仇討ちを仕掛けたのは、兄の曾我十郎祐成だった。ところが、さんざん付け狙ったものの工藤祐経に諭されしまい、逆に「赤木柄の短刀」を授けられてしまう。やがて弟の曽我五郎時致が元服し、兄弟揃って再び敵討ちをすることを決めるのである。 源頼朝の富士の巻狩に工藤祐経が同道することを知り、兄弟は仇討ちを決行。夜、寝所に入り込み、酔って寝ていた宿敵を討ち果たす。その際に兄は討ち死にするが、弟は捕らえられ斬首となる。その2人の墓が、写真の左側のふたつ言われ、一番右の墓は兄の妾だった虎御前の墓ということになっている。 しかし、これが実際にこの歴史上の人物のものなのかというのは分からないらしい。建立は鎌倉時代中期から後期ということ、2つ仲良く並んでいることから曾我兄弟のものということになったのかもしれない。 ちなみに曾我兄弟の仇討ちは江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃、能などの芸能で人気の演目となった。もうひとつの仇討ちで有名な赤穂の大石内蔵助もこの曾我兄弟の墓を訪れ、墓のコケを採ってお守りにしていたという。 そういう意味でこの五輪塔は、武士の精神的な支柱でもあったのかもしれない。

関東でも有数パワースポット・箱根神社

関東総鎮守の箱根神社。三柱の神様を箱根大神として祀っている。平安時代に創建されたという由緒ある社だ。
私事のハナシで恐縮だが、川越に住む先輩が毎年、箱根神社に初詣をしている。川越にだっていい神社はたくさんあるのにと思うのだが、かなり御利益があるらしい。 前でも少し書いたが、箱根はそもそも山岳修験道が栄えた場所である。箱根の駒ヶ岳もその信仰の対象だった山で、2400年ほど前にはすでに一大霊場であったと伝えられている。 1200年前の奈良時代初期に、萬巻上人がご神託によりこの地に箱根三所権現の宮を建立し、修験道と習合したという。その後、関東総鎮守箱根権現として江戸時代まで往来する多くの人の崇敬を集め、明治の神仏分離で箱根神社と改称した。 神社は芦ノ湖沿岸の高台にあり、荘厳な感じのするご神域が広がっている。ただ行ってみると、平日ということもあって中国人や韓国人の観光客ばかり。周囲からの雑音をだけを聞いていると、ここが香港の関帝廟じゃないかと錯覚する。外国人が神社建築に興味を持つのは分かる気がするが、二礼二拍手一礼で参拝している様子は、ちょっと不思議な感じがする。 ちなみにここの御祭神の一人であるニニギノミコトは、天孫降臨で日本を開拓した神様。つまり神道の祖であり、日本の祖でもある。それが理由なのか、明治天皇以来、歴代の天皇のすべてがこの箱根神社を参拝している。やはり一族の祖ということで、ここを詣でているのだろうか。それを聞くだけで、ちょっとありがたい神社な気がしてしまうのである。

箱根探検ギャラリー

北条方の城の中でも、山中城はその独特な遺構「障子堀」がきれいに残っている。
箱根神社から芦ノ湖を巡るように走り、有料道路お芦ノ湖スカイラインに入る。芦ノ湖を見下ろしながら走るターンパイクで、途中の三国峠から観る富士は圧巻だ(トップの写真)。道はやがて箱根峠で国道1号と合流する。 本来だったら、ここで再び芦ノ湖のほうに戻るのだが、ちょっと寄り道をすることにした。国道1号を三島方面に少し降りると、山中宿の集落が見えてくる。ここには、今話題の城跡があるのだ。 山中城は、後北条氏が本城である小田原城を守るために1560年代に築いた支城だ。箱根にはこのような城が10あるが、中でも山中城は重要拠点とされていた。それもそのはずで、この城は東海道を取り囲むような形で造られているのだ。つまり小田原を目指して東海道を進軍してきた敵を、この山中城で討つという役割だったわけだ。 今でこそ杉の植林で見えないが、樹木がなければ国道1号線を見下ろす絶好のロケーションだ。道路脇にジムニーを駐めると、道からいきなり立派な竪堀が見える。城マニアとしてはたまらない。 鳥居をくぐって、早速本丸へと向かう。山中城は昭和48年に三島市が整備して、現在は公園を兼ねた城趾となっている。鳥居のすぐ上は本丸跡であり、そこから西へと二ノ丸、西櫓が、南に三ノ丸が広がっている。
本丸から見た二ノ丸と西櫓。今は緑化されているが、もちろん当時は土が剝き出しだったに違いない。
さて、なぜこの山中城が話題なのかというと、それはこの城の独特な構造にある。というよりは北条の城に共通した造りなのだが、ここには「障子堀」と「畝堀」という堀がきれいに残されている。この堀の構造は後に真田幸村が「真田丸」という砦に使ったことで、昨今山中城が脚光を浴びているのだ。 障子堀や畝堀は、堀の中に塀を作り、敵が攻めにくくするアイデアだ。中が枡状になっており、いくつかには水を溜めて溜め池として使ったり、田んぼのようにドロドロにして、敵が進みにくいようにしていたらしい。 小田原城にも障子堀が残っているが、ここまできれいな遺構はない。山城ということもあり、まるでマチュピチュのようだ。西櫓からは富士山とその裾野が一望できるという、絶好のロケーションにある。 山中城は豊臣秀吉の小田原征伐を前に増強されたが間に合わず、結局7万の圧倒的な兵力に攻められて、わずか半日で落城した。そんな悲劇の城ではあるが、遺構はあくまでも美しい。城好きでなくとも、一度は訪れてほしいスポットだ。
県道732号沿いにある甘酒茶屋。昔ながらの風情の店で、昔ながらの甘酒を出す。
ジムニーは元箱根から県道732号に入り、旧東海道を湯本方面へと走る。厳密に言えば、車道と旧東海道は同じ部分と並行している箇所がある。車道が大きく弧を描きながら山を登っていくのに大して、旧東海道は山を直登するように走っている。 湯本から箱根関所までの区間は「東坂」と呼ばれ、箱根街道の中でももっともきついルートであった。江戸時代の人は1日平均40kmも移動していたらしいが、箱根だけは32km止まりだったというから、その難所ぶりが想像できよう。 そんな難所で旅人たちのスタミナ源となったのが、甘酒や力餅、そしてとろろ蕎麦だ。箱根にはかつて「甘酒小屋」と呼ばれる茶屋が9カ所あり、行き交う人々を癒していた。 明治13年になると湯坂道に国道1号が通ったためにこのルートは寂れ、その結果現在の甘酒茶屋1軒のみが残った。現在の甘酒茶屋は畑宿の上のほうにあるのだが、茅葺きの農家風の立派な造りだ。だが当時の甘酒小屋は、その名からも分かるように簡易的な小屋であったようだ。
とてもマイルドな甘酒(400円)は、米麹の甘さだけを活かしているんだとか。

畑宿の旧東海道にある一里塚。旅人が正確な移動距離が把握できるように、幕府が整備した道路インフラ。

本陣跡に残された日本庭園は、かの日本領事ハリスも訪れて喜んだという名庭園だ。

湯の里おかだの露天風呂。1日1400円。泉質はさほどでもないが、開放的で気持ちがいい。
富士屋ホテル内は、和と洋が前時代的な感性で融合した不思議な空間。洗練されていなさ加減がいい。
富士屋ホテルでカレーを注文すると出てくる香の物のセット。6種類あるが、ピクルスが激うま。
甘酒茶屋の力餅。甘さ控えめでとても美味しい。香の物がまた美味い。400円。