冒頭でも書いたが、時代劇を観ていると道場のシーンでお馴染みなのが、上座の3本の掛け軸。中央に「天照大神」、右に「鹿嶋大明神」、そして左に「香取大明神」の軸が下がっている。左右二柱は武道の神様だというハナシは聞いてきて、何となくそういうものだろうと思ってきた。
ところがこんな話を聞いて、「待てよ」と疑問を抱いたのである。代々の天皇は元旦に神々に遥拝するのだが、まず宮中にある伊勢神宮(天照大神)に遥拝し、その後東西南北の神々に向かって遥拝するのである。その東の神というのが、鹿嶋大明神と香取大明神だというのだ。
そもそも、平安時代に成立した「延喜式神名帳」では、日本で「神宮」と名が付くのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮だけで、それは明治まで続いていた。さてここで疑問が浮かぶ。なぜ鹿島神宮と香取神宮は天孫たる天皇でさえも遥拝し、三大神宮となるほど篤く信仰されてきたのだろうか。
しかも、鹿島神宮は茨城県、香取神宮は千葉県。現在ならさほど重要な場所と思えない場所に社はあり、両社は非常に近い場所にあるのも謎だ。
その理由は2つあった。ひとつめの理由は、神話の時代に遡る。天照大神が日本を治めようとしている時に、日本は荒ぶる神たちで混沌としていた。荒ぶる神たちの親分とも言える存在が、出雲にいた大国主命だったのである。天照大神は神々に相談して、使いの神を大国主命に送るが、早々に追い返されてしまう。
再び天照大神が神々に相談すると、「私が行きましょう」という神が現れた。それが香取神宮の祭神である経津主神(フツヌシ)だった。それを聞いて、「私も同行します」と言った神が、鹿島神宮の祭神・武甕槌大神(タケミカツチノオオカミ)だった。二柱は大国主命の元を訪れ、「おとなしく国を渡さなければ、武力で国を奪う」と強談判する。そうしたところ「私のために大きな社を建ててくれれば、喜んで国を譲りましょう」と大国主命は言った。
これは『国譲り』のエピソードであり、その後天孫は高天原に降臨して、日本を統治したのである。つまり日本という国の功労者はフツヌシとタケミカツチノオオカミということであり、伊勢神宮に続く格式として、鹿島神宮と香取神宮があるのである。ただ最初に強談判に行くと行ったのはフツヌシであるのに、神社の格式は鹿島神宮の方が上というのは、不思議だ。