かつて石岡は国衙が置かれた、常陸国の中心地であった。
今では水戸にそのお株を奪われてしまったが
それでも様々なおもしろいものが残っている町なのである。
ここからはいよいよ、石岡の中心地へと入っていく。
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山から降りると看板が目につき始めた。「ダチョウ王国」と書かれている。河野隊長と山岡巨匠の失笑が頭をかすめたが(失笑の理由についてはこちらの記事<動物に餌やりたい放題のB級スポット>を参照)、B級テーマランドに外れなしという僕の中の方程式に従って、ジムニーをそちらに走らせた。
行ってみると、連休中ということもあって家族連れで溢れていた。駐車場から見える所に、ダチョウがわっさわっさと羽を揺らしながら走り回っている。これは思った以上の「牧場」だ。聞いたら随時200羽ほどのダチョウやエミューが、ここで飼育されているらしい。
売店でポン菓子のような餌が売っていて、これを持っていると遠くからでもダチョウがダッシュでやってくる。よほど腹が減っているのか、この餌がうまいのか。ソフトタッチでクチバシを掌にのっけてくるテクニシャンがいれば、掌ごとかじるいけずなヤツもいる。
ダチョウは大きいが意外と人になつくので、顔面を突かれたりしないので大丈夫。ただしオスは少し気が荒い面もあるので、掌をガブッと持っていかれる時もある。
ダチョウ以外にもアルパカやゾウガメ、馬やブタといった動物もいるが、そちらのエリアは有料。もちろんそちらも探検したが、動物好きには十分満足できる“ラインナップ”だ。こちらにはモルモットやヒヨコなど小さくてかわいい動物たちもいるので、大きい動物はコワイ…という人でも大丈夫。
ダチョウ王国がただの観光牧場じゃないのは、何とダチョウが走り回っている横でダチョウの肉が食べられるとおいうシュールな部分。売店ではダチョウの各部位の肉のほか、オーストリッチのバックまで売っている。
売店の横にはBBQコーナーがあって、こちらでは肉を焼いて食べることができる。まさに“揺りカゴから墓場まで”である。さっき餌をあげたダチョウを食べるのはどうかと思ったが、やはり探検隊としては食べないわけにはいかない。
食堂に行って、ダチョウの刺身を頼んでみた。凍ったルイベ状態の赤身が出てきた。口に入れてみると、クセもなく、鳥というよりは鹿とか馬のような感じ。これはビールが欲しくなる。ここではダチョウのハンバーガーも食べられるので、バーガー隊長の松原さんにもぜひ行っていただきたいものである。
さてダチョウの刺身は食べたものの、到底お腹はいっぱいにならない。いつもなら「蕎麦でも食べますかっ」と河野隊長が言うので、今日は僕が隊長の代わりに蕎麦コレクションを増やしおくことにした。
目指すは「曲屋」。『常陸 風土記の丘』という県営の公園施設があるのだが、曲屋はその一角にある。店名になっている“曲り屋”とは、岩手県南部の伝統的な農家の建築様式で、母屋と馬屋がL字形になっていることからその名前が付く。
蕎麦屋の建物は江戸時代に建てられた曲り家らしい。100年以上経ってもこのように立派に建っているのだから、日本はもっと古い建築を大切にするべきなんではないだろうか。
中に入ると何かと世話を焼いてくれるおばちゃんたちが切り盛りしていた。この名物は、ダチョウの天ぷらが付く「韋駄天ざる蕎麦」だ。さっき刺身を考えれば、味的には問題ないだろう。
しばし待つと、蕎麦が出てきた。ダチョウの天ぷらは竜田揚げっぽい見た目。まずは蕎麦をたぐる。田舎蕎麦の域を越えた、なかなか洗練されたのど越しとコシだ。ツユもカツオだしが上品に効いていて美味い! 問題のダチョウの天ぷらだが…味は鯨の竜田揚げだ。ダチョウと言われなければ、まったく分からない。これも味が付いていて、美味しくいただける。
蕎麦とツユとダチョウの天ぷらのハーモニーがなかなか素敵で、あっと言う間に完食。ちなみに温かい蕎麦もあるようなので、次回訪れた際はこちらを食べてみたい。
蕎麦を堪能した後で、せっかく来たのだから常陸 風土記の丘を散策してみることにした。石岡は地理的条件が良かったのか、市内に1万年以上前の遺跡が多く残っている。また4〜6世紀の古墳もあり、ここは舟塚山古墳群があるところなのである。
というのも石岡には、律令時代に国衙(こくが)があった。国衙とは中央政権の出先の役所郡のことだ。ここで国司が政治や儀式を執り行ったのである。それゆえ、有力が豪族が多数住んでいたと考えられる。今の茨城県県庁所在地は水戸だが、それは御三家の水戸徳川家があった名残だ。徳川政権ができなかったら、石岡が茨城県の中心だったかもしれない。
さて、公園内には復元された竪穴式住居や移築した古民家などがあるが、何と言っても探検の目玉は「日本一大きい獅子頭」だ。獅子頭とはお正月に獅子舞いを躍るあれである。日本一大きい獅子頭は、竹下政権の悪名高い「ふるさと創生事業」によって一億円使って造られた。当時は、バカな一億円の使い方の例として、よくTVに登場したものだ。
なんでこんなものを…と思うのだが、実は獅子頭は石岡市のシンボルなのだ。石岡市にある常陸国総社宮の例大祭に行われるのが獅子頭で、悪霊を祓うとして住民に永く親しまれてきた。いつ頃からの風習なのかは分からないようだが、江戸時代には現在の様式が確立していたようだ。
石岡の獅子頭は全国に散見する獅子舞いと異なり、獅子小屋という車輪の付いた山車が付いているのだ。また各町に獅子頭があるというのも石岡ならではであろう。
で件の日本一大きい獅子頭だが、写真の通りだ。中は展望台になっているのだが、そこから見えるのは下にある芝生広場だけ。あんまり楽しくない。もうちょっとロケーションのいい所に造れば…という想いである。まあ歩かなくても近くまでクルマで行けるので、記念撮影をしたいという人はどうぞ。
石岡を探検するにあたって、僕が楽しみにしていたのが市内の看板建築だ。看板建築とは、関東大震災以降に流行した建築様式だ。
関東大震災で多くの地域が壊滅状態だった東京市内(当時)では、道路拡張などの再開発が進んだ。この時、日本の商家の伝統的な出桁造は新築を規制され、軒を道に出せば違法ということになってしまった。また防火構造にする規制も敷かれ、壁面をモルタルや銅板などで覆う必要が出てきたのである。
そこで各商店が少しでも目立つようにと考えたのが、当時庶民の間で流行し始めていた洋風建築を取り入れたデザインだ。大工や左官職人は腕を奮い、アールデコやコンリント様式といった西洋の伝統的なデザインを店舗の壁面に再現。これがいわゆる看板建築なのである。
看板建築を造ったのは、ほとんどが名も無い職人たちだっが、改めて細部を見ると西洋建築の造詣の深さに驚嘆させられる。中にはギリシャ・ローマ建築で多様された植物文様のアカンサスなども彫刻風にあしらわれるなど、日本人ならではの研究心が感じられるのである。
看板建築はその後、地方都市に拡散。石岡では昭和4年に大火があり、その直後から看板建築が増加したらしい。この復興時に石岡の街は一変して、近代的な様相になったと言われている。
市のメインストリートには現在も昭和初期の看板建築や江戸・明治期の商家が10数軒残っており、往時の様子を伺い知ることができる。きっと、モダンな街並みだったに違いない。
中には看板建築を木造で再現した「なんちゃって」もあり、石岡市民の茶目っ気が感じられていい。かつては通り沿いにもっと建っていた看板建築だが、老朽化に耐えられずに徐々に少なくなっているようだ。
看板建築を探すには、駅の観光案内所で配布している地図を見るのが手っ取り早いが、メインストリートから裏手に入った所に趣きのある建築がかなりあるので探検していただきたい。
さて石岡の探検もいよいよエンディングに近づいてきた。帰りがてら、八郷地区にある温泉「ゆりの郷」でひとっ風呂浴びていくことにした。筑波山や加波山が一望できるこの温泉、露天風呂が人気らしい。
築14年だというのが、管理が行き届いているのかまだまだ綺麗だ。浴室に入ると内風呂も洗い場も広く、混雑を感じない。お楽しみの露天風呂に出てみると、開放感があって非常に気持ちいい。空が広く、山の上の露天風呂に入っているようだ。泉質はカルキが強くてイマイチだが、それを差し引いても満足できた。
ちなみに浴場は日によって男女が入れ替わるようで、この日はラッキーなことに見晴らしのいいほうの風呂だったようだ。なので、写真と同じ風呂に入れるかは貴方の運次第。
飲食コーナーも広く、メニューが充実している。価格がリーズナブルなわりにボリューミーで、地元産の鶏肉や豚肉を使ったメニューも用意されている。この温泉は地元農協が営業委託されているようで、サービスは悪くない。ぜひ立ち寄っていただきたい日帰り温泉だ。
というわけで今回は石岡を探検してみた。改めて考えると、関東だけでもまだまだ知らない街がたくさんあって、世界に誇れる文化がたくさん残っている。特に茨城県は古代から人が多く住んでいる地域なので、興味深いことがいっぱいある。また風景も非常にダイナミックだ。石岡の隣の笠間市なども、非常におもしろい場所なので、また改めてレポートしたい。