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13.08.26

【vol15-2】日本再発見ジムニー探検隊>>遊・食・走の小豆島2日旅

瀬戸内海の海上交通の要衝であり、古くから様々な産業が育まれた小豆島。
後半は小豆島伝統の産業と見所メジャースポットをご紹介しよう。
場所によって表情が異なる小豆島は、まさにワンダーランドだ。

画像をクリックすると拡大&情報が見られます(スマホ、タブレット一部機種を除く)。

歴史の偶然が育んだ地場産業

島内最大の醤油醸造元であるマルキン醤油の蔵。明治に建てられた蔵で、今も醤油造りが行われる。

小豆島の南側には苗羽という地区がある。ここには小豆島の名産である醤油の醸造元が集中している。その醸造蔵の多くは明治、大正に造られたもので、その地域を巡っていると現在が平成であることを忘れるほどノスタルジックな雰囲気に溢れている。

小豆島の醤油は関東のものに比べて濃厚で、甘みも強い。関東で言うところの刺身醤油に近い味だ。だから地物の刺身を小豆島の醤油でいただくと最高。隊長と僕も小豆島に上陸した直後に、島の醤油で刺身を食してノックアウトされたのだが、二人の疑問は“なぜ小豆島で醤油なのか? ”ということだった。隊長が地元のお姉さんに聞いてみたのだが、「なんでですかねぇ。考えたこともありませんでした」とニコニコ顔で煙に巻かれてしまった。

その後も何人かにリサーチしたのだが、どうも曖昧だ。小麦はともかくとして、大豆が古くから島内で生産されていたのかという疑問が残る。人によっては「昔は島で栽培していたんですよ」なんて言う人まで出てきた。

そもそも醤油は1580年ごろ、紀州の湯浅という場所で生まれた。それまでは中国から伝わった「醤(ジャン)」を改良した「醤(ひしお)」が日本の代表的な調味料だったが、この醤油の発明は瞬く間にブームとなり、関西方面であっと言う間に庶民にまで定着したらしい。

さてその頃の小豆島では良質な花崗岩が穫れることから(詳細は後述)、豊臣秀吉の大阪城築城に使う石を切り出すために多くの大名たちが島を訪れていた。その大名たちが島内に醤油を持ち込んだのである。当時の小豆島では塩造りが基幹産業のひとつだったが、塩はあまり儲からなかったらしい。塩を原料に醤油に加工して商売につなげるということを島民は思いついた。


しかも小豆島は海上輸送が主要だった当時、交通の要にあった地。大阪や堺、京都といった場所に醤油を船で運ぶのに適した場所だった。だが小麦は島内で生産できるだろうが、大豆はどうしていたのか。小豆島は九州との交流が盛んで、素麺や塩を九州に出して、大豆や米は九州から持ってきていたのだ。

そして何より小豆島が醤油造りに適していたのは、その気候だ。高温で乾燥した気候ときれいな空気が、醤油の麹菌の発育や醤油もろみの熟成に適していた。幕末になると小豆島の醤油は千葉産と並んで有名となり、明治期に入ると資本主義の確立でさらに成長。明治19年には島内の醸造家は約400戸になり、島の一大産業となった。

マルキン醤油記念館では、実際に使われていた蔵の中で醤油造りの歴史が学べる。

島民はその後も醤油醸造試験所を造って品質向上を勤め、さらに結束して合同企業である「マルキン醤油」を設立し、島から良質な醤油を全国に送り出した。こうした努力により、一時はキッコーマン、ヤマサ、ヒゲタに並んで4大メーカーとして評価されるようなったという。

戦後は原材料不足から化学醸造に頼らざるを得なくなり、本醸造醤油は一時姿を消した。また小さい醤油メーカーは機械化ができず、競争力に劣っていた。そこで島の醸造家たちが協同で機械を購入して原料処理を一括して行い、それをベースにそれぞれの醸造元で醤油造りを行った。こうした流れで「タケサン」が設立され、現在に至っている。

マルキン醤油はその後、盛田の傘下になっているが、現在でも島では1000本の醸造桶が現役で稼動しているという。これは全国を見ても随一の数だというからすごい。ちなみにマルキン醤油記念館というのがあって、ここでは小豆島の醤油造りの歴史が展示で観られる。大人210円の入場料を払うと、お土産で醤油の小瓶をもらえるのでお得だ。ここには名物の「しょうゆソフトクリーム」があるのだが、取材当日は酷暑だったため“うへー、醤油味は勘弁”と思って食べなかった。食べていたどこかの奥様いわく「みたらしみたいな味」とのことだ。

話を戻すが、もし小豆島で大阪城築城に使う石が採れなかったら、そして小豆島がこの場所でなかったらこの地で醤油造りは行われていなかったに違いない。それを考えると、すべてが偶然であり必然だったのだと感慨深いものがある。

小豆島を彩る様々な歴史

中山の千枚田は、映画「八日目の蝉」にも登場した場所。

沿岸部は穏やかな漁師町が多い小豆島だが、山間部に入るとまた違った顔を見ることができる。土庄から県道26号を北上し、さらに県道252号で東に進むと中山という地区がある。香川県はそもそも雨が少ない地域で、小豆島も例外ではない。そのため、島は稲作に向かない。ところがこの中山の北側にある湯船山には1000年以上前から続く千枚田、つまり棚田があるのである。

その秘密は湯船山の山頂付近から湧く「湯船の水」。日本百名水にも選ばれた水で、何と日に400トンも湧いている。小豆島島民の多くが生活用水を山間部に造ったダムの雨水に頼っていることを考えれば、ここにだけ渾々と湧く最上の水は奇跡としか言いようがない。そして、その水が瀬戸内海に浮かぶ島に棚田という特異な風景を形成しているのだ。

棚田の頂上部付近にある蓮華寺の境内に湧く湯船の水を飲むことができるが、これが甘みがあって実にうまい。棚田の下にある「こまめ食堂」では、この水を使ったコーヒーを飲むことができるのだが、これがまた絶品だ。

ちなみにこの中山では、天保年間より農村歌舞伎が上演されてきた。天領では歌舞伎や浄瑠璃などの上演を許されることが多く、小豆島ではこの中山とすぐそばの肥土山で、現在でも農村歌舞伎が演じられる。中山の春日神社には重要無形文化財となる茅葺きの歌舞伎舞台があり、10月第二日曜日に演じられるので機会があったらご覧いただきたい。

小豆島素麺は細いのに強いコシが特徴。素麺の概念が変わるほど。

小豆島を走っていると、至る所で名産の素麺のメーカーを見る。メーカーと言っても、大抵はマニファクチャリングで小規模だ。ちなみに日本の三大素麺と言えば、奈良の三輪、兵庫の揖保乃糸、そして小豆島。素麺自体はすでに室町時代には造られていたようだが、小豆島に入ってきたのは江戸時代のはじめ。

池田地区の人々がお伊勢参りをした帰りに三輪で素麺造りを目の当たりにして、「これなら農閑期の副業で造れるし、家族の労力だけで済む」と考えて、その製法を学んで持ち帰ったと言われている。醤油にしても素麺にしても、小豆島は常の先見の明を持ち、努力家の人が多いという土地柄のようだ。

再三述べているが小豆島は地中海気候に似た温暖で乾燥し、しかも晴天率が高いことから、素麺造りがぴったりだったわけだ。僕も庭先に干してある素麺を干している風景を楽しみにしていたのだが、ちなみに素麺造りの最盛期は冬。夏は小豆島と言えども湿気が多いので、外には干さない。

小豆島の素麺の特徴は、他の地域で造られたものと異なり、細いのにコシが非常に強い。なんかウニュウニュしているという概念で小豆島素麺を食べると衝撃を感じる。コシの強い蕎麦が好きな隊長と僕は、一度でハマってしまった。まるで冷麺のような食感だ。素麺は小豆島にある食堂なら大抵はメニューにあるようなので、昼食にでも食べてみてはいかがだろう。

ちなみに九州の島原も素麺が有名だが、これは小豆島の人々が持ち込んだもの。島原の乱で多くの農民が殺害されたため、小豆島の人が島原に移された。その時、素麺も伝わったのだという。歴史がもたらす事象というのは、実におもしろいと思う。

島を全国区にした寒霞渓

寒霞渓は麓からロープウェイでも登ることができる。石門洞と並んで小豆島を代表する名所。

県道27号は、島の最高峰・星ヶ城山に登るターンパイク。夏は深い緑、秋ともなれば紅葉の縫うように走る美しい道だ。美しの原高原を越え、星ヶ城の手前に国立公園にも指定されている「寒霞渓(かんかけい)」がある。この景勝地は“日本三大渓谷美”“日本三大奇勝”“日本百景”とあらゆるものに選ばれており、つまりそれだけ素晴らしい景色ということらしい。日本書記にも記述があるようで、昔の人も日本離れしたダイナミックな景色に心を奪われたのだろう。

寒霞渓には「烏帽子岩」や「錦屏風」などの表十二景と、「石門」などの裏八景があり、徒歩で登ればそれらをじっくりと楽しむことができる。僕らはジムニーで頂上側に着き、鷹取展望台から眺めたので、残念ながら一部分しか観ることができなかった。それでも十二分に雄大な景色を堪能できた。下にクルマを駐め、ロープウェイで登るという手段もある。

さて、県道29号をさらに走ると、星ヶ城山に登る登山道入口が見えてくる。入口には駐車場があり、ここから徒歩で20分も歩けば、星ヶ城山頂に辿り着く。星ヶ城なんて名前だから城があるのか思っていたら、星ヶ城城趾があった。この城は南北朝時代の豪族・佐々木信胤の築いた山城で、今も土塁や井戸などの跡が残っている。佐々木信胤は当初は足利方だったが、その後南朝に寝返り、香川県坂出市での白峰合戦で討ち死にしたと言われている。この武将は小豆島島民と違って先見の明がなかったようだ。

星ヶ城山山頂からの眺めは小豆島随一のパノラマなので、ちょっと歩くが頑張って観に行ってほしい。

島の北側に多く見られる花崗岩の採石場。

城で思い出したが、前述の通り、小豆島には良質の花崗岩が産出し、それが大阪城の石垣にも使われた。石は主に島の北東部から産出されることから、この一帯には未だに大阪城用に切り出した石の余りが残っている。ご存じの通り、大阪城は2回造られている。一度は、豊臣秀吉によって建設され、二度目は大阪の陣以降に徳川秀忠によって大幅な改修が行われた。その2度の大工事に、ともに小豆島の花崗岩が使われた。ここで切り出して船で大阪湾まで運び、淀川を遡上すればいいのだから、いい場所に石が出たというわけだ。

島の石は大阪城のみならず、江戸城石垣、東京の山王神社の鳥居、皇居の石橋にまで使われているのだから、相当な名石ということいなる。なにせ古墳時代の石棺にも使われていたというから、他の石にない魅力が古くから知られていたのだろう。小豆島の花崗岩は加工がしやすく、変色しないという特徴を持っているそうだ。長く残したい建築物にはうってつけなのである。

島の石はいまでも採石されており、灯籠や墓石など様々なものに使われている。北側を走っていると露天掘りの採石場がワイルドな風景をつくっている。ここでジムニーを走らせたら楽しいだろうな…などと思ったが、もちろん私有地なので想像のみでやめておいた。

北側の沿岸部は南側とはまるで違う雰囲気で、静かな海と静かな集落が続く。ある意味、瀬戸内海の島らしさを感じることのできる一帯と言える。大部港に着くと、ちょうど日生行きのフェリーが来ていたので、我々の小豆島探検はここで終わることになった。

小学生時分に壺井栄の「二十四の瞳」を読んで以来、小豆島は憧れの場所だったが、想像に違わず素晴らしい島であった。奇跡のような自然と、長い歴史、人々の知恵と文化。多くの日本の地方が理想とする姿が、この島にはあった。島という特殊な環境だったからこそ偶然が重なり、こうした姿になっていったのかもしれないが。

関東からは少々遠いが、無理に時間を作ってでも訪れていただきたい島だ。ここにも都会が失っている日本の魅力が多く残っている。

<マップ:河野 仁 文&写真:山崎友貴>

小豆島探検ギャラリー

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