笠間を探検していると感じるのは、住民の文化レベルが高いということ。
きっと住みやすいんだろうなということが肌で感じられる。
そんな笠間で、観光で訪れた人間を魅了するスポットを発見。
後半は探検隊おすすめの場所をご紹介しよう。
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笠間の産業と言えば多くの人が窯業を思い浮かべると思うが、石材業も主幹産業のひとつだ。稲田白御影石と言われる花崗岩を採石しているのである。通称稲田石はその白さが特徴で、硬くてツヤがよく出るのが特徴なんだとか。今から約6500万年前にマグマが地中に貫入してできたらしい。実にロマン溢れる石だ。稲田石は墓石をはじめとして、オブジェや建材など広く使われている。
笠間を突き抜けている国道50号線を筑波方面に走ると、沿道にたくさんの石材屋が見られる。そのまま走り、稲田という交差点を右折して、県道289号をしばらく走ると、やがて白い岩肌を剝き出しにした露天掘りの採石場が見えてくる。これが通称「石切山脈」と言われる、日本最大規模の採石場だ。
東西8㎞、南北6㎞にわたって広がる採石場は、映画のロケなどにも使われる絶景エリアだ。基本的には中に入ることはできないのだが、一部だけ一般に見学が許されている。中野組石材工業という会社の採石場で、明治32年に同社の創業者が入山して切り出したのが、稲田石の歴史のはじまり。
同社の受付で見学許可をもらえば、採石所の中まで降りて見ることができる。稲田石は山肌に露出している場合もあるが、地中に入ったマグマで石ができたために、地中に向かってどんどん掘り進めているようだ。
採石場は階段状になっており、巨大なオペラハウスのようだ。上から下を覗くと、そのダイナミックな景観に痺れる。中でジムニーを撮影したら、さぞ絵になるだろうと思ったのだが、残念ながら当日は許可がでなかった。
採石場では1片4mくらいずつの正方形で、厚さ1mほどずつ切っていくのだが、切った石が全部つかえるとか限らないらしい。切り出した石の断面を確認して初めて、それが石材になるかどうかが分かるというから、石の価格が高いのも分かる。ちなみに見学の受付をする時に住所などを書くのだが、後から墓石のパンフレットが送られてくるらしい(笑)。
石切山脈から少しに西に走ると、国道50号線から少し入ったところに「稲田御坊 西念寺」という寺院がある。この寺は浄土真宗の寺なのだが、他の寺とは違う特別な寺だという。
浄土真宗の宗祖はご存じの通り親鸞だが、親鸞は若い頃に宗教的政変で京都から越後に流される。その後赦免されるが、稲田を支配していた稲田頼重の招きにより、常陸国を訪れた。そしてここ西念寺がある場所に草庵を建てて、東国での布教活動にいそしんだんだという。親鸞は常に寺を持たぬ人だったようで、西念寺が寺となったのは4代目住職の時だったようだ。
浄土宗の門徒にとって、この西念寺が特別な聖地であるのは、親鸞がこの地で浄土宗の根本聖典である「教行信証」を作ったからだ。浄土真宗が開宗したのは親鸞の没後だが、根源となる教えはここ稲田で生まれたのである。
西念寺は東を山、その他は水田に囲まれた風光明媚な所にある。近くに国道が通り、少々現代的な雰囲気もしなくもないが、昭和30年代くらいまでは日本の原風景の中にあったに違いない。
室町時代に建てられたと言われる山門(重要文化財)を抜けると、縦長の境内に伽藍が造られている。本堂は一見すると古そうだが、1996年に建てられた新しいものだ。本堂の裏には、近代的で立派な宿坊も建つ。
本堂の前には、親鸞は銀杏の葉に銀杏をくるんで埋めたら生えてきたと言われる「お葉付きの銀杏」がある。樹齢300年以上の立派な古木だが、さすがに親鸞の時代ではないとも言われている。
ここ西念寺は大谷派や本願寺派には属さないが、浄土宗にとって特別な場所ではあるために「別格本山」という名前が付いている。この地で何人もの弟子を育て、東国や東北に布教活動をしていたという親鸞。この穏やかな景色を眺めながら、果たして何を想ったのだろうか。
非常に興味深いのは、何と親鸞の遺骨がこの西念寺に納められているということだ。親鸞は京都で亡くなるが、妻の恵信尼に強い要望でこの地に遺骨を持ち帰ったという。その遺骨は境内の六角堂に納められている。
親鸞については吉川英治の小説などで触れたことがあるが、この笠間で親鸞が一気に近くなったような気がする。フィクションのようにさえ思える歴史上の偉人たちも、実際この世界に存在したんだと思うと、ちょっと不思議な感覚だ。春先などはきっと気持ちがいいだろうから、機会を作ってまた訪れたいと思う。
漫画「美味しんぼ」で、すっかり有名になった北大路魯山人。篆刻、絵画、書道、陶芸なんでもござれで「万能の異人」と呼ばれた天才だ。だが海原雄山もびっくりの横暴ぶりで、自ら取り仕切っていた料亭「星岡茶寮(ほしおかさりょう)」を追放されてしまうという問題児でもあった。これは魯山人が母の不貞で生まれたという出自ゆえとも言われている。
魯山人は茅葺き屋根の建物をこよなく愛し、鎌倉山崎につくった「星岡窯(せいこうよう)」には2軒の茅葺き屋根を他から移築していた。一軒は来賓用の「慶雲閣」、そしてもう一軒がここ笠間にある自らの家「春風萬里荘」だ。残念ながら慶雲閣は消失してしまったため、この春風萬里荘は廬山人の感性を知る貴重な文化財となった。
というのも廬山人は、美しい空間に住んでこそ美しいものを創造する感性が生まれると信じていたからだ。この茅葺きの建築は江戸時代のもので、厚木の郊外の豪族の家であった。それをもらい受けて、北鎌倉に移築したのだという。魯山人の死後、廃屋同然となっていたものを日動火災が笠間に移築したという、何とも運命めいた建物なのである。ちなみに「春風萬里」とは廬山人が愛した、杜甫の漢詩から来ている。
さて、建物の中に入ってみると、さすが魯山人の家と唸らずには居られない。ベースは田舎の豪邸だが、馬屋を改造したリビングルームやトイレ、風呂などに魯山人らしいモダンな美意識が反映されている。
元来器用だった魯山人は、大抵の物を自作してしまっており、風呂桶やトイレの便器などまで自作。だが、どれも芸術として昇華しており、いまこんな家に住めたらどんな素晴らしいだろうと考えてしまう。
ただ、一方で誰からも愛されずにここで人生を終わったかと思うと、少々の切なさもある。
ちなみに春風萬里荘は「笠間日動美術館」の別館という位置づけだ。春風萬里荘の入館料と美術館の入館料をセットにすればお得なので、ぜひ行っていただきたい。収蔵品は堅苦しいものばかりでなく、アンディ・ウォーホールなどの現代アートなどもあって、誰でも取っつきやすい展示内容となっている。美術館自体の空間構成もなかなかのもので、ブラブラと散歩するだけでも楽しいと思う。
今回は笠間のスポットをいくつかご紹介したが、これ以外にも陶芸美術館や宍戸城があった場所にある民俗資料館など、おもしろそうな場所がいっぱいだ。笠間は一見するとどこにでもある日本の地方という風情だが、何とも言えない心地よさがある土地だった。山ひとつ越えると、桜川市や真岡市になるのだが、それらの場所とは明らかに違う雰囲気が流れている。人間にちょうどいい土地、笠間はそんな表現がぴったりの所だった。
<文・写真:山崎友貴>