パート2では、大地の芸術祭アートトリエンナーレ2015に出品されていて
特に僕が注目した作品をご紹介しようと思う。
度肝を抜くスケールの作品から、アイデアに唸る作品まで実に多様。
アートの魅力をぜひ知っていただければと思う。
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大地の芸術祭に出品されている作品には、いくつかの傾向がある。自然に融合するように立っているオブジェ系、使わなくなった建物を利用して、その中に造られた空間系、そして建築系だ。
まず最初にご紹介するのは2番目のタイプ。松之山地区にあった旧東川小学校をまるごと使った作品である。題名は「最後の教室」。フランスのクリスチャン・ボルタンスキーとジャン・カルマンの共同作品だ。
小学校の1階から3階、体育館を巡るように観る作品で、人間の不在を表現しているという。入口は体育館で、扉を開けて中に入ると、いきなり真っ暗。思わずビビって受付に戻ると、愛想のいいご老人2人が「順路は中を通って、先です」と言う。
またまた暗闇の中に戻ったのだが、周囲は見えないし、足元はフカフカしていて気持ちが悪い。前に進めと言ってもどうにもならない。すばらしく立ちすくんでいると暗順応してきて、うっすらと様子が見えてきた。それが写真上である。ベンチと扇風機が藁を敷いた体育館に並んでいる。
どういう意図があるのか作家にしか分からないが、何だか琴線に触れる作品だ。先に進むと点滅する赤いランプやら何やらがあって、何ともおどろどろしい雰囲気。一緒に回っていた女の子などは絶叫号泣である。
3階に行くと、白いシーツと蛍光灯が並べられた教室があり、これがまた何だか心にじんわりと来る。
この作品は2003年に一度創り、2006年にリメイクされたものらしい。2006年に作者が訪れたのは豪雪の冬で、雪に閉ざされた同地の様子にいたく感銘を受けていたという。
次のご紹介する作品は、その根気に頭が下がるアートだ。作品名は家の記憶。築150年という、それだけでも驚きの農家の内部を使った作品で、ベルリン在住の塩田千春のクリエイティブ。
入り口にいる好々爺にスタンプを押してもらって中に入ると、「こ、これは〜?!」。部屋から天井裏まで、とにかく数えきれない本数の毛糸が張り巡らされ、その合間に家具や本など、近隣の人からもらったという“捨てられないもの”を織り込んである。
どうやって張り巡らしたのかとか、埃が溜まると掃除大変そうだとか、作品全体より違う所に気が行ってしまうのだが、とにかくこれを二週間で創ったというのだからすごい。
きっとこの家が建ってから、この家にこんなにたくさんの人々が訪れる日が来ようとは、建てた人も家も思わなかっただろう。アートが古民家を再生させた代表的な例である。
次は「凄すぎる…」と圧倒された作品を2つ。最初は「土石流のモニュメント」というアートだ。津南の辰ノ口地区では、長野県北部地震の時に大規模な土石流が発生した。今も山肌には、その時の爪痕が痛々しく残る。
その記憶を後世に残そうと磯部行久がクリエイトした作品だが、なんとその後に造られた砂防ダムをそのまま活用しているのだ。通常は無機質な砂防ダムのコンクリート部分に木の板を巻き、見事に“転換”させている。その周辺には無数の黄色いポールが立っているが、これは土石流が流れた後に沿って立っているのだという。昼は砂防ダム上に設置された展望台から、土石流跡の全容を確認することができる。
夜になると砂防ダム全体が写真のようにライトアップ。さらに黄色いポールの先に内蔵されたLEDライトが点灯し、ちょっとした夜景となる。
次の作品は、松代駅のすぎ脇にあるミュージアム「能舞台」の前に設置されている。ちなみに能舞台にはたくさんの作品が展示されており、ここに行くだけでかなりの数のアートを鑑賞できる。
ご紹介する作品は大地の芸術祭の紹介ではかならず露出されるもので、まさにこのトリエンナーレのコンセプトを具現化したアートであると言っていいだろう。その名も「棚田」。ロシアのアーティストであるイリア&エミリアカバコフ姉妹が制作した。
棚田に農作業をする人々を象った彫刻が配置されている。そして、指定された場所から観ると稲作の情景を詠んだテキストが重なって見えるという仕掛けになっている。棚田は季節によってその情景が変わるので、季節ごとに見え方が変わるという楽しい作品だ。
棚田には青と黄色の彫刻が立っているのだが、畦に入って近くから鑑賞することができる。ただしこの田んぼは農家が実際の稲作に使用しているものなので、くれぐれもマナーは守っていただきたい。他の場所でもそうだが、クルマが駐められないからといって、農道に入ったり、ジムニーを農地に乗り上げたりなどということがなきよう。
現代アートって何だろう。この問いに明確なプロトコルのようなものはないのだが、大地の芸術祭の現代アートは非常に空間を意識しているように思える。農村という空間の中に別な空間を創造する。そんな時空間を歪めるような感じが、現代アートなのではないだろうか。だからこそ違和感を感じ、その違和感がとてつもなく面白い。
ここではそんな代表的な作品を2つ。最初はフィンランドのカサグランデ&リンターラ建築事務所が制作した「ポチョムキン」。昔、「戦艦ポチョムキン」という映画があったが、その戦艦を意識しているのかどうかは分からない。人をなめた名前からして、すでにアートを感じる。
さてそのポチョムキンだが、田んぼと川に挟まれたちょっとした空間を利用して造られている。赤錆の浮いた鋼板で塀を作り、中の空間は庭園のような公園のような、何とも言えない設計になっている。作者いわく「文化のゴミ捨て場」なのだそうだ。
以前、京都で重森三怜の庭園を観たことがあるが、その時と同じような心地よさがここにはある。ユンボのツメが置いてあるなんてところは文化のゴミ場を表現しているんだと思うが、これがポチョムキンだと言われれば納得である。とにかく面白い。
ただ、異質な造形物なはずなのに、周囲の自然とがっちりとタッグを組んでいるところは素晴らしい。作者の高度なセンスを感じるし、日本の風土というものをよく理解しており関心する。
次の作品は行武治美が制作した「再構築」。野原に建つ物置小屋のような建物の外装一面に、手で削ったという鏡がぎっしりと張ってあるのだ。
その鏡に周囲の里山の風景が映って、まるで景色にとけ込む光学迷彩のようになっている。この日は無風だったので体験できなかったが、風が吹くと鏡が揺れて、光や景色が動いて面白いらしい。
中も実に計算された空間となっている。この作品を観て思ったのは、「どうやって鏡を磨くのだろう?」。放っておけば鏡に埃などが付くし、気温や湿度が変われば曇りも出てくるはずだ。この外装はハシゴでもかけて磨けばいいだろうが、室内の床はどうするのだろう…。
まあ、そんな地下鉄漫才みたいなことはどうでもいいのだが、この作品も季節ごとに見に行きたいもののひとつである。
草間弥生と言えば、日本の現代アートシーンの旗手であるオバサマだ。オバサマの作品は女性に人気で、某高級ブランドのバッグになったりもしている。そんな草間弥生の作品が「花咲ける妻有」。僕が説明するのも口幅ったいので、同氏の作品解説を。
『妻有は気高い土地である。どんな作品でも大手を広げて自由に包みこんでくれる寛容の地である。私が作った巨大な花の野外彫刻作品がここに置かれて妻有の空気を讃美し、美しい陽光を天からそそがれて、この上ない心の安らぎをおぼえている。世界から人が見にきて欲しい。そして全作品をミドリの森や林の奥にみつけて、妻有に来た感動をあじわって欲しい。大地の芸術祭バンザイである。野外彫刻は全世界と日本を含めて数ヶ所作った中でも「花咲ける妻有」は私のお気に入りのナンバーワンである。』
ということらしい、世界の草間オバサマの一番のお気に入りが、なんと松代駅のすぐ脇にあるのである。でも、背後の鉄塔がおしい…。岡本太郎の作品を彷彿とさせる彫刻は、堂々たるもので、どこから観ても隙がないのがすごい。さすが日本のトップアーティストである。
個人的には直島にあるカボチャのほうが周囲の海にマッチしていて好きだが、オバサマがベストワンというのだから、きっとそういうことだ。
次に紹介する作品は、ジェームズ・タレル御大の「光の館」。この人の作品は、幾何学的な空間と光と色の錯覚を利用したものが多く、直島の地中美術館にある「オープンスカイ」には度肝を抜かれた。
この光の館はそんなジェムーズ・タレルの真骨頂とも言える建築なのだが、実はここは宿泊施設。誰でも泊まることができる。河野隊長も機会があれば是非泊まりたいと言っていた。
平等院造りの見た目通り、基本は和風建築なのだが、居間や寝室、風呂、廊下にタレルの手法が炸裂している。今回訪れたのは昼間だったが、ここは絶対に夜に観るべきだ。中にはいろいろ仕掛けがあるので、今回はあえて紹介は避けておこう。
芸術祭の会期中でなくとも見学や宿泊ができるので、ぜひ一度行っていただきたい。アートと共に一晩過ごせたら、きっと幸せなはず。直島のホテルと共に、宿泊したい宿のひとつだ。
というわけで、今回は越後妻有で開催されている芸術祭を中心に探検してみた。この記事がアップされてから2週間は開催しているので、ぜひご覧いただきたい。きっと現代アートの虜になるはずだ。また作品によっては常設のものもあるので、地図を片手に秋の越後妻有をドライブするのも楽しいだろう。
日本は今、各地で限界集落が増えている。だが自然に縁遠い都会人と農村の人々がこのような形で交流して、そこから新しい文化が芽生える日本であれば、高齢化社会にも希望が持てるはずだ。こうしたイベントが日本各地で開催されることを望みたい。
<文・写真/山崎友貴>