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ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
VOL.001
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.1
ジムニー探検隊NEXT /// VOL.1

源頼朝はかく逃げたり![小田原・湯河原・真鶴]

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、高視聴率を記録しているようです。かくいう私も、久しぶりに鎌倉時代をテーマにしていることから、毎回欠かさず観ています。ゆかりのスポットはどこも人出が多いようですが、今回はジムニーならではのドライブプランをご提案。それは「源頼朝敗走ルートを辿る」です。少々ネガティブなタイトルですが、意外なスポットが多いので、ぜひ最後までご覧ください。

文・山崎友貴 写真・山岡和正

本当にここで合戦した?! 石橋山古戦場跡の地形に驚愕

石橋山古戦場跡付近をTS4で走る。眼前に海原が広がる風光明媚なこの場所で、かつて戦があったとは想像がつきません。

東名高速、小田原厚木道路を使ってジムニーで2時間弱。終点で降りて、国道135号を根府川方面へと走らせます。風光明媚な相模湾の景観とは反対側に、源頼朝が初めて負け戦をした石橋山があります。

私事ですが、我が家には代々伝わってきた「石橋山の合戦」を題材にした錦絵があり、それを幼少から眺めながら“石橋山ってどんな所なんだろうな” と、日々思っていました。

JRの線路を横切ると、やがて石橋山古戦場跡の石碑が。それを横目に見ながら、さらに山道を奧へと登ります。道が非常に細く、しかも急坂。こういう場所をドライブすると、ジムニーシエラで来て良かった…と実感します。

しかし、行けども行けどもミカン畑が広がる斜面。山とは言え、合戦場というと平地を想像するのは僕だけではないはず。『吾妻鏡』など、様々な記録によれば、ここ石橋山に300騎で陣を敷いた頼朝軍は、討伐に向かった平家方の大庭景親軍3000騎と小さな谷を隔てて向かい合ったといいます。

この辺りにあるわずかな平地と言えば、佐奈田霊社の境内くらい。そこも決して広いとは言えず、ここに300騎すら入るには難しいのではないでしょうか。しかし、このすぐ下で佐奈田与一義忠が闘死したという記録が残っていることを考えれば、この辺りが主戦場ということに…。

ここが石橋山古戦場跡と言われる場所の一角。ミカン畑が広がるが、斜面は見た目以上に急峻で、重い甲冑を着て戦うのはさぞ大変だったのではないでしょうか。

平安時代末期の武装は、40kg弱もあったそうですから、それを着用してこの谷を登り降りし、さらに格闘するのは大変だったに違いありません。ちなみに、ここで対峙した両軍は、“やーやー、われこそは〜”と名乗り合いをした後、『言葉戦い』というもので合戦を始めます。

言葉戦いというのは、自分の血筋や戦功などを自慢し、相手をけなすというもの。味方の戦意を高揚し、相手の戦意を喪失させるために行ったようです。子どもの頃に「おまえのかあちゃんデベソ〜」なんて言い合ったものですが、まあこれの高度なものと考えればいいわけで、いずれにせよ大人げない感じがあります。

1180年のこの日、天候は大荒れ。この悪天候に乗じて、大庭景親は一気に片を付けようと頼朝軍を攻めました。三浦半島から来る三浦一族の援軍を待っていた頼朝ですが、景親はその援軍が酒匂川の増水で足止めされていることを察知し、夜のうちに戦いを決めようとしたのです。

頼朝軍は少数で善戦したようですが、結局敗走。ちりぢりとなり、頼朝自身は土肥実平の領地があった現在の湯河原町方面へと逃げました。

それにしても、石橋山の合戦場は想像していたのと大違い。ドラマのロケ地の地形ともかなり違います。平安末期の甲冑などの武装は、フル装備で約40kg。それを身に付けて、ここを登り下りして白兵戦を行ったのですから、さぞヘロヘロだったことでしょう。坂東武者たちは、アメリカ海兵隊を上回る強靱な肉体を持っていたに違いありません。

落ちる頼朝の胸中を想いながら林道を走る

箱根付近を通っている林道の1本を、TS4で走ってみました。鹿や野鳥も現れる自然豊かな箱根の山中を、頼朝一行はどんな気持ちで歩いたのでしょうか。

石橋山辺りから湯河原方面には、いくつかの林道があります(一般車が走るには、管理者の許可が必要なルートがあります)。その多くが使われている形跡がほぼなく、路面は荒れ放題。もちろん、これらは後世に整備されたものですが、こうした山道を頼朝たちは逃げたのかもしれません。

この辺りの山中は、修験道が盛んだったようです。熱海の山中にある伊豆山権現社(現在の伊豆山神社)がその拠点で、周囲には様々な痕跡が残されています。そのため、林道こそはないものの、修験者が使った山道はあったのかもしれません。

林道は荒れているとは言え、そのほとんどが舗装かフラットダート。今回の相棒「アピオジムニーTS4」は、40㎜アップのオリジナルサスペンションキットを装着しているので、この程度の道は難なく走ることができます。フラットダートであれば、トランスファーを4WD-Hにシフトするところですが、その必要もないほどです。

それでも、時折雨水で流れた泥が堆積している路面があり、こういったシーンではマッドタイヤとリフトアップアップサスペンションは旅人に安心感を与えてくれます。

日本を随分と旅してきましたが、ジムニーの安心感は唯一無比。特にTSシリーズは無敵とも言える存在です。まずコンパクトなサイズですので、軽トラックが入った形跡のある道であれば、問題なく走ることができます。さらにリフトアップサスペンションを付けたTSシリーズであれば、荒れた道での安心感がまるで違います。

リフトアップサスペンションを装着していることで、路面の障害物にお腹をぶつける恐れが大幅に減りますし、乗り心地もアップ。マッドタイヤを地形に沿ってトレースさせ、悪路を力強く走ることができるのです。

そんなTS4の頼もしさを感じながら、いよいよ頼朝が隠れたという「しとどの窟」へと辿り着きます。

頼朝が死を覚悟したと言われる修験道スポット

クルマファンの聖地「箱根ターンパイク」を大観山で下りて、椿ラインで湯河原方面に少し走ると、椿台という展望スポットがあります。その取り付け道路をさらに進むと、灯籠が並んだ駐車場が。ここを下っていくと、敗走した頼朝が土肥実平と共に隠れたと言われる『しとどの窟』があります。

湯河原は古来、土肥の庄と言われる実平の領地がありました。この地名は今も残っています。頼朝が敗走する時に、主人の身を案じた武士たちの多くは同行を希望しますが、実平が「少ない人数なら逃げ延びるチャンスがあるが、大勢では難しくなる。将来の大幸を考えて、ここは耐えてほしい」と言い聞かせ、主従八騎で逃げ延びたというエピソードがあります。

こうして実平は、地の利がある自分の領地に逃げ込み、隠れるのにうってつけだった洞窟に逃げ込みました。しとどの窟は古来の修験道スポットで、伊豆山権現(今の伊豆山神社)をベースに修行していた山伏たちが立ち寄った場所のようです。

修験道のパワースポットだった「しとどの窟」。立ち並ぶ仏像の中に、頼朝はもとどり(髷)に隠していた持仏を並べたと言われています。頼朝がいた頃も、この水は流れていたのでしょうか。

駐車場から長い山道を下りて大きな岩の側を登り返すと、巨大な洞窟がぽっかりと口を開けていました。中には何体もの古仏が並び、いかにも霊験あらたかな雰囲気が漂っています。

頼朝の敗走後、大庭景親の郎党は近隣を捜索。この辺りにも、景親の手が伸びていました。捜索隊の中には、当時はまだ平家方だった梶原景時がおり、この洞窟で頼朝主従を発見します。しかし、何かを感じた景時は見逃すことに。これにより、頼朝は一命を取り留めます。

洞窟の発するパワーを受け止めた探検隊一行は、進路を真鶴半島へと取ります。椿ラインは真鶴まで抜ける道ですが、つづら折りの山道。そんなワインディングロードでも、TS4は40㎜リフトアップしているとは思えないほどキビキビ走ります。ダンパーの減衰力を調整してやることで、オンロード寄り、オフロード寄りにキャラクターを変えることができるのが、アピオオリジナルサスペンションの美点です。

また、装着しているヨコハマ・ジオランダーM/Tのグリップも上々です。マッドタイヤは舗装路での性能が低いイメージがあるかもしれませんが、最近のモデルは、舗装路やウェット性能のバランスに優れています。ジオランダーM/Tもまた、秀作タイヤのひとつと言えるでしょう。

再起を図って房総半島を目指した頼朝出立の地

真鶴町にある「しとどの窟」。周りが採石されたお陰で小さくなってしまったが、昔は海崖にあった洞窟だったと言います。

真鶴半島は相模湾に突き出た小さな半島。15万年前から箱根火山の活動によって形成がはじまった、いわゆる流れ出た溶岩です。真鶴駅からほど遠くない場所に、もうひとつの「しとどの窟」があります。昭和初期までは、果たして湯河原町にある窟とどちらがホンモノか、真贋が争われました。しかし現代では、近辺を逃げ回った頼朝が隠れた複数ある窟のひとつと言われています。

真鶴の窟は道沿いにあり、車窓からでも眺めることができます。実はこの洞窟は、昔は海に面していました。しかし関東大震災によって半島の一部が隆起し、今のように海岸から離れてしまったのです。

この辺りは建設に適した石が出ることから、昭和初期には採石が盛んに行われたようです。かつての窟はもっと大きな洞窟だったようですが、周囲の石が伐られたことから、今のような規模になってしまったんだとか。伐られた石は軍事施設の建設に使われ、三浦半島の海軍特攻用の基地、横須賀第二飛行場、第三飛行場が造られたと記録されています。

頼朝が船で房総半島に向かって出た浜辺。現在では、夏場に賑わう海水浴場になっています。

窟から駅方面に少し戻ると、岩海岸という風光明媚な砂浜があります。ここから、頼朝一行は船で房総半島に逃げ、その先で再起を図ったと言われております。いざ船に乗ろうとする段になって、頼朝は武士8人に「八騎は源氏にとって不吉なので、7人に減らすように」と命じました。というのも、平治の乱で破れた源義朝(頼朝の父)は、わずか八騎で都落ちしたからです。

結局、土肥実平は自分の息子を船から降ろし、一行は7人で房総へと向かいました。浜辺に立つと、そこからは遙か彼方に房総半島が見えます。船は浦賀水道を横切って、安房国猟島(現鋸南町竜島)で一行は上陸したといいます。そこで千葉常胤の庇護を受け、北条や三浦一党と合流して再起を図りました。

季節外れ、しかも平日の岩海岸には人影もまばらで、聞こえるのは潮騒だけ。頼朝がここを船出したのは旧暦の8月23日、いまの9月23日にあたります。訪れたのは9月上旬でしたので、この時よりもさらに秋が深まった頃。この静かな浜辺から、頼朝一行はどんな想いを抱きながら房総へと向かってのでしょうか。

つわものどもが夢の跡。平安時代末期にこの地域で鎌倉幕府の礎となる合戦があったことは、いまはまるでフィクションのよう。しかし、数々の史記が示すように、多くの武士たちが石橋山で夢をかけて戦ったことを想うと、何とも勇壮な気分になります。TS4の窓を開けて潮騒に耳を傾けていると、もののふの鬨の声が重なったような錯覚を覚えました。

頼朝方の一人で、討ち死にした佐奈田与一義忠が葬られている「佐奈田霊社」に登る階段。神社はわずかな平地に建てられており、ここが頼朝の陣だったのかもしれません。
神社の本殿。佐奈田与一義忠は持病の痰で声が出なかったと伝わっていることから、参拝すると咳・声・喉に御利益があると言われています。
神社の境内にある与一塚。ここに佐奈田与一義忠が葬られていると言われています。頼朝などは葬られた場所さえ不明瞭なことを考えれば、後世まで残ったことは幸いとも言えます。
佐奈田与一義忠が敵をねじ伏せて討った場所は「ねじり畑」と呼ばれ、作物がすべて捻れると言われています。このミカンはどうしょう…。
真鶴のしとどの窟周辺で採石された石。昭和には軍用の建材として使われたという記録が残っています。