ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『山田の春祭り』埼玉県秩父市
祭り。この言葉を聞いて、胸がときめく人が多いと思う。神事であり、祭典であり、饗宴であり。日本では一年を通じて、実に多くの祭りが行われている。ジムニー探検隊は今回より、全国各地の祭りを追うと共に、開催される街を訪れていこうと思う。
文・写真/山崎友貴
関東近郊に住む人であれば、秩父の名を一度は聞いたことがあると思う。近年、西武鉄道が開発に力を入れている場所で、川越と並ぶ観光地になっている。秩父は武甲山から出る良質の石灰から作るセメントでも有名で、大正12年から産業としてこの地に根付いた。
それ以前の秩父は養蚕が主な産業であり、明治期になると絹の輸出が盛んになったことから、秩父は生糸、織物の産地としてだけでなく、商いの拠点として栄えた。特に国内向けに作られた秩父産の織物は「秩父銘仙」として重宝され、外から買い求めに来る人が多かったようだ。
洋装が主流となった昭和以降からは、徐々に秩父の賑わいも静かになっていき、今はその頃の名残を見ることもない。
秩父は盆地の街ゆえに、その景観はダイナミックだ。武甲山を中心に、美の山、宝登山などに囲まれ、遠くは両神山や奥多摩の山々を望むことができる。条件が整えば、市街をすっぽり包む雲海を見ることができ、それを撮影しに多くの愛好家がやってくる。
秩父にアプローチするにはいくつかのルートがあるが、意外性のあるルートと言えば、秩父高原牧場から入る道だ。秩父はその東側を、秩父七峰と呼ばれる山塊が関東平野とを隔てており、秩父高原は七峰の一角になる。小川市からワインディングを登っていくと、関東八州のパノラマと共に、眼前に牧草地が広がる。その光景は、秩父という地名が持つイメージとは離れている感があるが、これもまた秩父の懐の広さと言えるかもしれない。
牛がはべり、花々がほころびはじめた緑の台地を駆け抜けると、やがて道は秩父市の山田地区に入る。ここが、今回の祭典「山田の春祭り」が行われる場所である。
山田地区の隣に、黒谷という場所がある。ここは、日本発の流通貨幣「和同開珎」の原材料となった銅が採掘されていた地だ。言い伝えによると、708年に黒谷の山肌から露出した自然銅が発見され、それを都に上納したことから、和同開珎の鋳造が始まったとされる。
当時の日本は鉱山の発見は大変なことだったらしく、年号まで「和銅」に改元されたほどだった。しかも、その銅の純度が高く、精錬の必要がないほどの品質だったらなおさらのことだろう。銅山の近辺では鉱毒がつきものだが、この地域でその被害が記録されていないのは、そういった理由があるのだろう。
黒谷には銅の露天掘り跡があり、その下には聖神社が建立されている。この神社は、銅を献上した際に朝廷から勅使がつかわされ、鉱山の神様である金山彦命が銅山に祀られたことに始まるという。その後に遷座され、現在の聖神社になったという。
この神社はお金の神様で、お金に困らないという御利益があるということから、平日でも多くの人が訪れている。中には中国からの観光客も交じり、世界共通の人間の欲深さを垣間見た気がして苦笑いしてしまう。
ここから市街までは、20分ほど。市内は近年、建物の建て替えが進み、かつての趣が失われつつある。メインストリートは日本のどこにでもあるものとなり、裏町のみに昭和の空気感を感じることができる。
市街の中心にある秩父神社に向かう道には僅かに古の秩父が残り、週末ともなれば観光客で賑わうことになる。秩父神社は、秩父開拓の祖である知知夫彦命や、昭和天皇の弟宮である秩父宮など四柱が祀られている。
そもそも秩父神社は武甲山の山岳信仰から始まったと言われているが、その祭神に武甲山の蔵王権現は祀られていない。ただ、10月にとりおこなわれる例祭(秩父夜祭)は、武甲山の蔵王権現と秩父神社の妙見菩薩が、一年に一度の逢瀬を楽しむための祭りとされている。
秩父を歩いていると、気づくことがある。それは蕎麦屋が多いことだ。埼玉県と言えば、やはりメジャーな麺類はうどん。腰の強い太めの麵が、うどん食いの心を惹きつけてやまない。だが、秩父では蕎麦がメインなのである。
秩父地方は盆地で、周囲に山が多いことから土中に小石が多く、痩せた土地だった。そのため、小麦ではなく蕎麦の栽培がメインとなった。加えて盆地気候のため、昼夜の寒暖差、夏冬の気温差が大きい。加えて水が豊富で澄んでいるため、腰が強く風味の高い蕎麦ができるのだという。
親族が秩父に移住したため、筆者もよくこの地で蕎麦を食べるが、どの店もそれぞれオリジナリティがあって楽しい。共通しているのは、腰が強く喉超しがいいということだ。そして、この山田の地にも名店がある。「二八そば ひらい」である。この日は祭りで休店だったが、細目で品のいい蕎麦、からっと揚げられた天ぷらは絶品だ。
少し脚を伸ばして、大野原にある「手打ちそば ささいち」もいい。ここのくるみ蕎麦は、ぜひ試してほしい。胡桃を挽いたつけ汁ではなく、濃い目のタレに砕いた胡桃が浮いている。蕎麦は縮れた手打ちで、腰が強くて旨い。胡桃の食感と蕎麦の腰、そして挽きぐるみ粉の香りのハーモニーはクセになること間違いない。
小鹿野にある「泉蕎庵とみた」も、脚を伸ばしていく価値がある店だ。麵は中太で、噛むと感じる上品な香り、そして強すぎない腰、濃いめの汁は江戸蕎麦好きにも受け入れられる味だ。やはり、ここでも天ぷらを食いたい。
「オーリャイ、オーリャイ」。かぶいた若行たちが屋台の上から発するかけ声が、4年ぶりに山田の田園風景の中に響く。2基の屋台、そして笠鉾、いわゆる山車は、それぞれ「山組(中山田)」「本組(上山田・新木)」「上組(大棚・中山田)」の氏子が管理し、各地区を曳き回していく。
山田の春祭りは垣持神社の例大祭であり、一年中何かの祭りがある秩父において、最初に山車が曳かれる祭りだ。つまりこの神事が行われると、人々は長い冬の終わりを知り、新たな活動に向けて準備を始める。
山田の春祭りの歴史は意外と浅い。明治政府によって行われた神社合祀によって、山田地区の神社が垣持神社に合祀されたことがきっかけで始まったという。今は3基の山車だが、かつてはもっと多くの山車が曳かれた時代もあったという。
山田地区は織物が盛んな地区であったことから、屋台や笠鉾の装飾は実に見事だ。この織物こそ秩父銘仙と呼ばれるもので、艶やかな色合いと精細な図柄が眩しい。ここは山間部だが、絵柄は海のものばかりなのも興味深い。
山車はそれぞれのルートを通って垣持神社に集まり、恒望王(平氏の始祖・高望王の弟)や日本武尊など四柱の神をのせた神輿の露払いをするように、御旅所の八坂神社へと向かう。
山田は決して平坦な地ではなく、山車を曳くのも容易ではない。「オーリャイ、オーリャイ」のかけ声に合わせて曳き手が縄を引くと、木製の車両がまるで音楽を奏でるような音を立てて進む。
面白いのは、この車両の潤滑油にはこの地で取れたネギの油分が使われており、山車にはネギが山ほど積まれているのだという。
3基の山車の中でも笠鉾は美しく、これが通ると地区の空気がパッと華やぐ。まるでしだれ桜の巨木が、しずしずと旅をしているかのようだ。屋台は、京都祇園祭りの山鉾に似ており、その影響を多分に受けているのかもしれない。笠鉾や屋台の造りは、他の秩父の祭りのものと共通で、山田の春祭りを筆頭に、これから晩秋まで各地区で同じような光景が見られるのである。
祭りはオーリャイのかけ声、軽やかな屋台囃子だけで静かに進み、武甲山が見下ろす山田地区の人々にひと時の歓びをもたらしていく。祭りは宵まで続き、やはり山田地区で作られている花火の打ち上げによって、大団円を迎える。
つい先日まで山肌にあった武甲山の雪はすっかり消え、盆地の中は暖かさを増していく。やがて山の麓にはさくら草が咲き、秩父は夏に向かって季節を進めていくのである。