ジムニー探検隊NEXT -祭り、その街-
『諏訪大社上社・御頭祭』長野県諏訪市
神事は基本的に、日本の神道のプロトコルによって行うものだ。しかし、全国には古式ゆかしい神道のそれには当てはまらない神事もある。そして、それを執り行う神社自体が、謎の多いものであることもある。
文・写真/山崎友貴
東京から約3時間。長野県諏訪市は、諏訪湖を中心に栄えてきた地方都市である。そして、諏訪大社の町でもある。この地方は澄んだ空気と水に恵まれていたことから精密機械工業が盛んとなり、「東洋のスイス」などと呼ばれてきた。
セイコーエプソンの拠点のひとつとしても知られ、戦中戦後を通して時計やレンズなどの生産を行ってきた。現代では、情報機器産業や自動車関連部品などが生産する企業がこの地域に集まっている。
こうしたことの背景には諏訪市の自然環境のみならず、諏訪氏がこの地に来る以前に施政者であった守矢氏のDNAが影響しているのかもしれない。なぜなら守矢氏は、朝廷下で鉄器や兵器の製造を担っていた物部氏の一族と言われているからだ。
その辺りは後述するとして、改めて諏訪という土地を見てみたい。諏訪は盆地であり、フォッサマグナの一部である糸魚川静岡構造線のズレによってできたとされている。中央に諏訪湖が位置しているが、この諏訪湖こそジムニーを造るスズキの関連施設がある天竜川の源流なのである。
見た目が広く、水深もありそうな諏訪湖だが、実は浅いと言われている。というのも、諏訪湖に流れ込む河川は31もあるのに対して、流れ出ているのは天竜川のみ。流入する土砂が多いのにボトルネックであることから、湖底に堆積してしまったようだ。これが理由で、かつては水質汚染に悩まされたことがある。
かつての諏訪湖は頻繁に結氷し、戦車や飛行機が出入りしてという。現在では温暖化もあり、名物の「御神渡り」は珍しいものになってしまった。
諏訪は縄文・弥生時代から人が住んでいた跡が残っているが、施政者である諏訪氏、金刺部氏がこの地にやってきたのは古墳時代のようだ。諏訪は城下町として捉えられることもあるがそれは江戸期になってからのことで、基本的には諏訪大社の社領として栄えてきた。
前述の御神渡りもしかり、諏訪を代表する神事である「御柱祭」も、すべてこの諏訪大社に由来している。この諏訪大社が全国でも珍しいのは、上社と下社に別れており、さらに上社は前宮と本宮、下社が春宮と秋宮に分かれており、計4社で構成されているということだ。こうした神社は他に例を見ない。諏訪大社についてもまた後述する。
一度は武家として滅亡した諏訪氏が江戸期に高島藩(諏訪藩とも)を興し、明治までこの地を支配した。藩庁があった高島城は「諏訪の浮城」として名高いが、江戸時代に諏訪湖の大規模な干拓が行われて以降、縄張りなど平城の様相を呈している。今は往時を偲ぶ復興天守が再建されている。
城の天守はレプリカだが、城下町は素晴らしい。諏訪はそもそも、中山道と甲州街道がぶつかる要衝の地にあることから、町が栄えたのである。両街道がぶつかる諏訪大社下社の門前町でもあった下諏訪宿では、今もわずかだが宿場町の名残が残っている。
しかし、より昔の面影が残っているのは上諏訪の方であり、下諏訪宿から旧甲州街道を走り、高島城下へと入ると、江戸期、明治期の建築が多く残る。さらに、大正から昭和にかけての看板建築も多く、町全体が建築の博物館のようだ。ノスタルジックな雰囲気を、ぜひジムニーで走って堪能していただきたい。
諏訪大社が、いつ創建されたのかは定かではない。ただ古事記にはその成り立ちにまつわる神話が記されていることから、西暦700年以前には代表的な神社として確立していたのだろう。
諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)と、その妃とされる八坂刀売神(やさかとめのかみ)の二柱である。建御名方神は、大国主神の息子の神だ。天孫族への国譲りの際、大国主神に背いて建御雷神(たけみかずち)に服従しなかった。力比べで負けて、この諏訪の地に逃げてきたという。建御雷神は建御名方神を殺そうとしたが、服従して諏訪から出ないことを約束し、それからこの地に祀られている。
記紀の神話は事実を寓話として著したものだろうから、出雲族が天孫族に戦で敗れて、遠く出雲から諏訪まで逃れ、この地に土着したということなのかもしれない。
建御名方神の一族である諏訪氏のことを紐解こうとすると、実に謎めいていることが分かる。諏訪氏の出自は、元々信濃国を治めていた金刺氏の支族であるという説と、奈良県の大神神社に祀られている大物主神の後裔とされる大神(おおみわ)氏の同族であるという説がある。
金刺氏というのは臣籍降下した一族で、元々は九州、畿内にいたとされている。朝廷の警備や雑用をしており、700年代後半から諏訪を支配し始めたとされている。しかし、700年代前半に編纂された古事記には、すでに諏訪大社の記録があることから、諏訪氏が先に来ていたと考えるのが妥当かもしれない。それなら金刺氏が下社の神職を務め、先にいた諏訪氏が上社の大祝(おおこうり:諏訪明神の現人神)を務めたというのも自然だ。
さらに、諏訪にはそもそも守矢氏という先住の一族がおり、この一族は洩矢神とを信仰する一族だった。言い伝えによれば、洩矢神は建御名方神の諏訪進出を阻み、争いに負けて建御名方神に守屋山山麓の土地を譲ったと伝えられる。その後の守矢氏は諏訪氏の下で諏訪大社の神長官になったのだが、そもそも建御名方神は天孫に追いやられてこの地に辿り着き、さらに建御名方神が洩矢神を押しのけるという伝説は、何とも切ない感じがする。
いずれにせよ、信濃国というのは中央政権にとってよほど魅力のあった土地だったようだ。このさほど広くない諏訪の地に、諏訪氏と金刺氏という有力豪族がやってきて、共に建御名方神を祀る上社と下社という諏訪大社を創建し、共に権力を振るったのは実におもしろい。
諏訪氏と金刺氏は、諏訪大社の神官を務めながらも、その社領を背景に武家としても発展した。特に諏訪氏は、源頼朝ために祈祷し、その後は北条得宗家のご案内人となってさらに武家としての力を蓄えていった。諏訪大社前宮の裏手にある鎌倉道が、その頃の名残として残されている。
鎌倉期から上社と下社はどちらが本宮かを争っており、さらに室町期になると諏訪氏同士の戦い、武田氏を絡めた諏訪氏と金刺氏との戦いが起き、1500年代前半に下社の金刺氏は滅亡する。
諏訪大社、そして諏訪一帯の歴史を紐解くと、実に血なまぐさいことに気づく。上社が前宮から本宮に移されたのも、諏訪一族同士の争いで聖地が血で穢されてしまったということに起因している。
それでも諏訪大社は、軍神として鹿島神宮、香取神宮と共に崇拝され、加えて狩猟・漁業の神様としても広く信仰を集めた。そのため、全国にはなんと25000社にも及ぶ諏訪神社が分祀の形で創建されたのである。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。春光の中で、八ヶ岳を背景に神事の行列が進む…などという光景を思い描いていただけに、その天候が恨めしかった。
御頭祭は現代こそ4月15日に行われるものとなったが、そもそもは3月酉の日に執り行われる神事だった。諏訪地方の長い冬が終わり、ようやく春の訪れを迎えるのと同時に、諏訪大社に五穀豊穣を祈るのである。ただ、様々な山のもの、海のものが神饌として神前に捧げられる中に、鹿の頭が入っていることが非常に珍しく、それが奇祭として捉えられる要因になっている。
様々な資料を調べてその起源を探ったが、残念ながら定かにはならなかった。だが、諏訪大社上社では中世から狩猟神事が盛んになっていることから、ちょうど諏訪氏が武家として活躍をはじめた平安末期あたりから始まったのかもしれない。
一方で、その起源は守矢氏が古代から信仰していた洩矢神やミシャクジ神(精霊)に対しての神事にあるという見方もあり、それも頷ける一説だ。さらには、守屋山という山名が、旧約聖書の「イサクの燔祭」に出てくるモリヤ山と同じことから、御柱の風習などと結び付けてユダヤ神とのつながりを見出す人もいる。
午前中の例大祭が終わってから数時間、諏訪大社上社本宮の拝殿には宮司を筆頭とする神職が、そして拝殿前の齋庭には氏子たちがかしこまる。境内に笛や笙、鉦が奏でる雅楽が響き、凜とした空気がさらに引き締まっていく。
神職の手から神職へと受け渡される神饌が、神に続々と供された後、宮司によって祝詞が上げられる。宮司が打つ柏手は、まるで神鈴のように清らかで、やわらかく参列の中に入っていった。
氏子を含めた参拝が終わると、やがて神職たちは依り代を質素な神輿に移し替える。そもそも諏訪大社のご神体は境内の背後にある守屋山であり、上社本宮には本殿というものがない。そのため、かつては境内の上方にある「硯石」を依り代として遙拝していたのだという。
だが、今の拝殿は守屋山に正対するのではなく、東南方向を向いて参拝するようなっている。本宮の社務所に聞いたところ、正確なことは分からないとしつつも、拝殿後ろにある「神居」という神域を拝んでいるという説、そもそも上社があった前宮に向かって拝んでいるという説があることを教えてくれた。こういうプロトコルも一般的な神社とは大きく異なることから、諏訪大社の神秘性が広がっているのかもしれない。
依り代が神輿に移されると、神職を先頭に、黄色い鮮やかな衣を纏った氏子たちがそれを前宮へと運ぶ。これを「神輿の渡御(わたりまし)」という。かつては大祝である諏訪氏が鎮座して神事は行われたらしいが、明治期以降、諏訪氏が大祝を世襲できなくなったことで、この神輿に依り代を載せるという“代案”が考えられたようだ。
非常に興味深いのは、神輿の前を歩く氏子が「薙鎌」という神器を掲げることだ。この薙鎌は刃が鳥のような形をしているのだが、どうしてこのような形なのかははっきり分かっていない。またなぜ薙鎌が諏訪大社の様々な神事に使われる神器なのかも、諸説あるようだ。
本宮から前宮に向かって、2㎞弱の道のりを粛々と列は進む。そして前宮の鳥居をくぐると、「十間廊」という神事を執り行う建屋に行くのである。諏訪大社上社の神紋は「諏訪梶の葉」だが、十間廊をぐるりと巻いた幕には菊のご紋が描かれていたのは不思議だった。
十間廊はその名の通り、十間の長さの廊なのだが、これをユダヤ教の幕屋(移動式の神殿)と共通しているという言う人もいる。
上手(今度は西向きに拝む)に神輿が置かれると、その前に「御杖柱(みつえばしら)」という不思議な柱が捧げられる。角柱の上に柏葉と2本の矢などが取り付けられるのだが、何を意味しているのかが謎だ。昔はもっと大きなもので、時代にとっては童子をくくりつけて捧げられたという。こういった風習が、イサクの燔祭と結び付けられるようになったのかもしれない。
再び神職によって、神饌が続々と捧げられる。しかし、今度はそこに鹿の頭が入っているのである。かつては本物だったようだが、時代の流れで剥製が使われるようになった。多くの神社では鹿は神の使いとされているのだが、諏訪大社上社では神饌として捧げられることに、古代信仰の一端を見るようだ。
昔はイノシシも捧げられたようだが、熊、猿、カモシカ、山鳥、岩魚は捧げてはならないという掟がある。これらが諏訪神にとって神聖であったことは容易に想像がつき、これも他の神社とは違う興味深い点なのである。
その後、宮司による神事が進められ、さらに前宮にある3つの拝殿を参拝した後、再び依り代は神輿で本宮へと戻る。そして本宮で再び渡御と同じ神事が繰り返され、それが終わると御頭祭は幕を閉じる。
御頭祭は想像よりもシンプルな神事だったが、身が引き締まるような雰囲気が常にあった。御頭祭は時代と共に変化したとはいえ、未だ古代の信仰の様子を間違いなく今に伝えるものだ。農耕よりも狩猟が盛んだった時代の、荒々しさもある神と民の契約。そこには今の日本人の誰もが知らない世界があり、諏訪の人々は脈々と受け継ぎ続けているのである。
御頭祭は4月15日にしか観られないが、前宮と本宮の間にある「茅野市神長官守矢資料館」においては年中、神事の歴史やその一端を観ることができるので、立ち寄ってみてほしい。