20数年前に一度ブームになったのだが
青森県と秋田県の県境に「クロマンタ」というピラミッド山がある。
造られた年代は特定されていないが、様々な状況から紀元前4000年にはすでにあったと見られる。
原始的な生活をしていたとされる縄文人は、なぜピラミッドを造ったのだろうか。
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例のごとく、突然川崎編集長からの電話が入る。「今回は縄文人の生活を掘り下げられるような、遺跡に行ってもらえないですか」。
日本にはたくさん縄文遺跡があって、登呂遺跡や三内丸山遺跡などが有名だろう。僕も遺跡は大好きだ。都会の狭間にある宅地跡とか見るとうら寂しい気持ちになるが、縄文人の住宅跡は心が躍る。柱の穴が空いているだけでワクワクするのだから、違うものを見たら大興奮だ。
例えば、秋田県鹿角市にある「大湯環状列石」。いわゆるストーンサークルといわれるものである。昨今では祭祀に使われていたという定説になっているが、実際はどのように使っていたのか未だ不明なのである。
せっかく遺跡に行くなら、昔はこんな生活をしていました…よりも、何だかミステリアスな遺跡の方がフィールダーらしいと思えたので、僕と山岡カメラマンはTS4シエラ・スーパーチャージャー仕様で東北に向かった。
ぶっちゃけるが、今回の取材車がTS4シエラ・スーパーチャージャー仕様で本当に良かった。なにせ東京から大湯までは700km以上。軽自動車ではきついし、シエラではもっときつい。シエラはリッターオーバー車だが、高速でのレスポンスは決して良くない。いや、全然良くない。
同時に走ると、JB23に追いつけないということが多々ある。せっかく5ナンバー車を買ったのに、この動力性能は…と思っている方も多いと思う。そんな方に福音なのが、アピオのシエラ用スーパーチャージャーキットだ。アピオとKansaiサービスがコラボレーションして完成した、まさに入魂の一品。
これのおかげで、すっかり鈴鹿8耐で骨抜きになった山岡巨匠を頼らず、ひとりで700km以上運転してもストレス知らず。特に100km/hからの加速は、ノーマル車に真似できない。シエラだと侮ってくる多くのスポーツカーに、一泡吹かせてやれたのは溜飲が下がるというものだ。
インターを下りてまず向かったのは、大湯環状列石。実はここ、4WD専門誌をやっている頃に訪れたことがある。もう20数年前だったこともあり、街も環状列石もすっかり様変わりしていた。
土が剝き出しだったストーンサークルは、すっかり草で保護され、まるで公園のような造りになった。近くには新しい立派な資料館も完成し、いかにも世界遺産を狙っている匂いがする。
それは置いておいて、ストーンサークルは一体何をするためのものなのか。まず分かっている事実だけをお伝えしよう。
大湯環状列石は、近くに河原から持ってきた河石で構成されている。環状列石は、いまから4000〜2000年前に造られたと見られている。ストーンサークルは県道を挟んで「野中堂」と「万座」のふたつが存在しており、その外径は野中堂が42m、万座が46mと巨大だ。
このふたつの遺跡には、それぞれ一つずつ日時計状組石というのが存在し、野中堂の日時計状組石の文字盤のような石は、正確に東西南北を示していることが分かっている。また、環状列石の中心部から日時計を見た時に、そちらが夏至の日の入り方向になることが分かっている。さらに野中堂のストーンサークルから万座のストーンサークルを見た時に、同じく夏至の日の入りになっているのである。この遺跡によって、夏至と冬至の太陽の動きも分かる。
環状列石の下には墓孔も確認されており、この遺跡は縄文人の宗教観を司っていた可能性が非常に高い。
宇宙など科学的な物に非常に興味を示し、うさんくさい物には超否定的な山岡巨匠だが、「事実」として目の前に残っているストーンサークルには興味津々のようだ。たしかに実際に目にしてみると、この光景が紀元前に造られたものとは驚きである。
縄文時代とは、紀元前131世紀から紀元前4世紀ごろまで。日本の歴史の時間では、縄文人は粗末な毛皮の服を纏い、狩猟をして暮らしていたと教わる。だが冷静に世界のその頃のことを考えてみよう。
紀元前5500年頃には農耕が小規模組織化された「ウバイド文化」が生まれ、紀元前3500年ごろにはシュメール人が都市を築いていたのである。日本は極東の小さな列島に過ぎないが、同じ地区にある桜がお知らせもないのに同時に咲くのと一緒で、人間だって一地域が極端に文明が遅れるだろうか。
仮にちょっと田舎で発展が遅かったとしても、ただただ自然の恩恵で生活し、自然に翻弄されて生きていたとは考えにくい。
日本に生きた縄文人とて、十分な知識と文明を持っていたと考えるのが、自然だと思うのだがいかがだろうか。
では、ここ大湯は縄文時代はどんな土地だったのだろう。世の中には様々な研究をしている人がいるもので、縄文時代の人口分布のデータを作った人がいるのである。遺跡などから測定するのだろうか。
それによると、縄文初期、日本全土で一番人口が多かったのは、何と東北なのだ。雪深いこのような地域でなぜ? と思う人が多いと思う。だが、今から4000年前というのは日本列島もまだ火山活動が盛んで、実は今より温暖な島だった。
特に東北は八甲田山や十和田火山の活発活動期で、大湯環状列石も十和田火山の火砕流に襲われた痕が残っているという。
温暖だということは、動物や天然の植物系の食べ物も豊富にあったわけであり、狩猟生活でも十分に暮らしていける。もちろん雪も降らないから、桐灰カイロもいらない。
ところが、データによると縄文中期から後期に向かって、どんどん人口が西に移動しているのである。東北は縄文末期にはほとんど人がいなくなっている。逆に西日本は人口が多い。
このタイミングで何が起こっているのか調べてみると、徐々に火山活動がなくなっており、日本はプチ氷河期を迎えているのだ。東北は、僕らの知っている東北の地になったのである。
さて現代でも、気候変動で小氷河期を恐れている人がいる。「デイ・アフター・トゥモロー」みたいになっちゃうと思われているわけだ。たしかに近いうちにあんなになったらどうしようかと戸惑う。
現代では衛星や海流の温度を測定するシステムや、科学の力があるのでいきなり気候変動に直面することはないが、縄文時代は違う。火山活動が沈静化したと思って安心していたら、何だか寒くなっていくわけだ。動物も植物も少なくなっていく。日本でも縄文時代に農耕が行われていたことが分かっているが、稲も育たなくなっていく。これは何も知らなければ、恐ろしい恐怖ではないだろうか。
環状列石に話を戻そう。こうした気候変動の中で、夏至や冬至、そして季節の移り変わりを正確に把握し、それを生活に活かそうとした知識と知恵を縄文人は持ち合わせていたと思う。世界において、地動説は比較的新しくても、天文学の歴史は古い。
火山の地熱に頼れなくなった状況下で、莫大なパワーを持つ太陽に頼り、太陽の動きを知り、太陽を崇める。これは自然な流れだと思うのだが。ストーンサークルは縄文時代の気候変動の中で生まれた天体観測施設であり、祭祀の場所であったのだと考える。
ただし、そこに死者を埋葬するほどの信仰心、つまり太陽信仰には若干の違和感があるのは確かだ。ここからはフィールダー本誌では書かなかった、トンデモ本ばりのことを書いていきたいと思う。
僕ら日本神道が定着しているので、太陽信仰というのは観念として理解できている。神話だとしても、天照大神に手を合わせる人は少なくないはずだ。
だが良く考えてほしい。日本神話は大和朝廷が全国を統治するための政治的手段であり、これは戦中まで使われてきた。元々あった土着の太陽信仰にアマテラスという女神(女性統治者)のイメージを重ねることで、より明確な宗教へと昇華させたのである。
では縄文期はどうだろうか。小氷河期が訪れ、例え太陽の熱がありがたかったとしても、天を規則通りに動くだけの太陽を神格化するだろうか? そこには神を感じるだけの原体験やイメージがあったのではないだろうか。
話を少しを変えるが、日本には山岳信仰というものもかなり古くからある。山岳信仰の対象は様々で、火山もあればそうでない岩山もある。ここ大湯の場合は、間違いなく火山だろう。
火砕流によってこの辺りが被害を受けた名残があるわけだから、縄文人にとって火山はまさしく「荒ぶる神」だったに違いない。荒ぶる神に鎮めてもらうための山岳信仰は当然存在していたはずだ。
大湯環状列石からも見えるが、野中堂から見て夏至の日の出方向に、黒又山という三角山がある。別名クロマンタと呼ばれ、その名前の由来にはこの地の族長だった黒沢万太の墓だったとか、アイヌ語で神の山を示す言葉がなまったものだとか諸説ある。
平成4年から5年にかけて、環太平洋学会という団体が、ここを「ピラミッド」と仮定して学術調査を行ったのである。調査は地中レーダーや発掘など、かなり本格的なものだった。このメンバーの一人に、僕も実際にあったことがあるが、某大学と予備校の講師をしている方で、SFまがいのことを真剣に信じているような人ではなかった。
この調査では、いくつかの「事実」が発見された。まず黒又山の斜面は東西南北をほぼ正確に示している。斜面は7〜10段に人工的に成形された可能性が高い。そして、頂上にストーンサークルがあった可能性が高く、頂上直下10mほど下の地中に大きな空間があるということだ。
これだけでピラミッドと言えるのかという指摘もあるだろうが、少なくともストーンサークルの址が頂上にある以上、宗教的な施設であったと見てもいいのではないか。
この山が宗教的な匂いがするファクターは他にもある。
実は不思議なことに、この黒又山は東西南北、そして夏至と冬至の太陽のラインに沿って正確に、周囲に神社が配置されている。実際、僕もGPSで調べてみたが、高度な測量技術があったと思える正確な配置だ。
なぜこのように黒又山を神社で取り囲む必要があったのか。神社は神道、もしくは仏教の施設であり、大和朝廷以降に建築という形で建てられたものが多い。土着の古代宗教とは一線を画すものである。黒又山や環状列石が先にあり、神社は後から建てられたと考えるのが自然だ。
里山に無作為に建てられたのなら、信仰の篤い土地で片付けられるが、まるで懼れるかのごとく、周囲を正確に、しかも裏鬼門の方向にもしっかりと神社を造るのは、陰陽道の考え方だ。そこまで懼れられた黒又山とは一体何だったのか。
もうひとつ、不思議な事実がある。この土地の縄文遺跡の分布を見てみると、環状列石近くにはわずか2つ、黒又山の周囲には多くの遺跡が見つかっているのだ。つまり人々はこの黒又山を取り囲むようにして生活していた。
間違いなく、ここは普通の三角山ではなく、特別な何かがあったに違いない。
山岡巨匠と共に、20数年ぶりに黒又山に登る。黒又山は標高281mの山で、10数分もあれば登れる。登山道は、頂上にある本宮神社の参道であり、入口には立派な鳥居がある。
多くの人の証言があるのだが、不思議なことにこの鳥居を過ぎると、重力というか、磁場というか、何だか自分を取り巻く何かエネルギーみたいなものが変わるのだ。超リアリストの巨匠が「変わった」というのだから、やはり何かある気がする。
登っていくと、その斜面は不自然なほどきれいに平らだ。今は杉が伸びてしまっているが、何もなければ古墳とかを登っているような感じに思えただろう。
黒又山は地質的には、十和田火山の活動の一環でできた山らしいが、大きな石や岩が転がっているわけではない。ただただ斜面の平さが不自然なだけだ。
頂上に登ると、本宮神社が建っている。本宮神社は、豪族・安倍貞任の家臣である本宮徳次朗が、薬師堂を建てたのが始まりと言われている。明治の廃仏毀釈によって神社という名前になったが、元々は仏教のお堂だった。
ここには何柱かの神が祀られているが、メインが薬師如来である。薬師如来は医事の菩薩であり、本宮徳次朗が医者だったことから、住民の健康を願って…というのが建て前となっている。
ここで僕はふと不思議なことに気づいた。この神社は西を向いている。時計のコンパスを使って測ると、真西を向いているのだ。神社は通常、東か南を向いて建っているのが一般的だ。西を向いているのは、「常識」ではない。
たしかに仏像などは極楽浄土がある西を向いているものもあるが、それでもお堂は東や南を向いているのが普通だ。これは神仏習合のセオリーと言ってもいい。
拝殿の裏側に回ると、小クロマンタという小山に向かって、緩やかに一筋伸びるスロープがある。周りはきれいにストンと落ちている法面なのに、一筋だけスロープのように伸びている。
これはインカなどで見られる、石組みのピラミッドの形状に酷似している。シャーマンはこのスロープを通って頂上に登り、祭祀をしたのではないかという想像が、どうしても頭をもたげる。
シャーマンはスロープを登ってクロマンタの上で祭祀を行い、神々の言葉を民衆に伝える。開けた西側の平野に集まった人々は、シャーマンの東からやってきたシャーマンをまるで神のように崇めたかもしれない。ちょうど東から登ってくる太陽神のように。
ちなみに本宮神社の元々の本尊とされる薬師如来は前述の通り医事の菩薩だが、実はある宗派では大日如来、つまり太陽の神様と同体とされているという。これは偶然か。
そして野中堂のストーンサークルから見た黒又山は、夏至に太陽が昇ってくる方向にある。一番太陽が勢いがある季節の日の出の位置に。これも単なる偶然と言えるだろうか。
さていよいよ、ここから想像の世界は広がる。なぜ民衆が太陽を崇めたのかに切り込んでみよう。
思い切り「ムー」のような話になるが、黒又山では飛翔体の目撃が非常に多い。江戸時代に黒又山を描写した墨絵の中にも、摩訶不思議な物が飛んでいる様子が描かれている。
またここから近くにある大石神ピラミッドや、キリストの墓と言われている土饅頭がある戸来村などでも、不思議な飛翔体が目撃されている。
それらと黒又山の関係を言えば、もはや絵空事にしか聞こえなくなるが、誤解を恐れず敢えて書いていきたい。
そもそも神とは何だろう。科学が進んだ現代こそ宗教は観念的なものであることは、誰でも理解できる。だが、古代において、神は意思を持ったものだったに違いない。誰もが分かる意思を持った何か。
では天空を規則性を持って移動する太陽自体に、人は神を見ただろうか。個人的な意見だが、すごいパワーを持ったものと畏怖しても、そこから意思は感じないはずだ。では、意思を持った太陽神を想像してみてほしい。皆さんはどんなものを想像するだろうか。人間が恐れおののくほどの、何かを見せる存在なのだ。
偽書と言われている「竹内文書」には、東北に世界を席巻するような文明が存在していたと言われている。この本以外にも、東北には優れた超古代文明があったとする本がいくつかある。東北に点在する不思議な伝説を考えれば、このようなハナシもあながち嘘ではないのではと思える。
突拍子もない話が続いて、欠伸をする人も出てきただろう。だが、もう一度事実だけを考察してほしい。
大湯には御用学者が世界遺産にすることに必死になっている「大湯環状列石」があったことは事実。それらは縄文時代に正確に太陽の道を示したいたことも事実。そこから夏至の日の出方向にクロマンタがあることも事実。そしてクロマンタは、人の手によって山肌を成形した形跡があるのも事実。
学者たちが原始人のように扱ってきた縄文人は、あの時代にこれだけのことを東北で行ってきたのである。これらの遺跡がどのように使われていたかは想像の域を出ないが、そこにあることが真実なのである。
どうだろう、皆さんの縄文人のイメージは少しは変わっただろうか。超文明という話は置いたとしても、僕らの日本にはこうした文明や信仰があったことだけは確かだ。
やがてこの地はアイヌ民族の支配する所となり、蝦夷もまた、大和民族に追いやられていく。この山は眠れる神のように扱われ、いまは鹿角の人々の生活を静かに見守っているだけだ。だが、ここにインカのような優れた文明があった、としたら、それは僕らの夢をかき立てないだろうか。
<文/山崎友貴 写真/山岡和正>