秋と言えば「実りの秋」、そして「食欲の秋」である。
だが昨今では、そうした自然の実りはスーパーで簡単に入手できてしまう。
多くの人は、これらのモノが自然の中でどのようにできるのか知らない。
今回は里山に出向き、天然ものの収穫を体験することにした。
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今回のフィールダー編集長の指令は「山で天然の実りをゲットする」ことだった。恥ずかしげもなく言うが、取材で何回か天然ものの果実などを採りに行ったことはあるが、特段にその造詣が深いわけではない。どちらかというと、スーパーや青果店で買ってしまうクチだ。
「できればキノコ採ってきてくださいよ」という言葉に、さすがの僕も閉口した。キ、キノコは危険だ…。ベテランでも食中毒に遭うというのに、素人の僕が毒キノコを見抜けられるわけがない。
というわけで、今回は強力な助っ人をお願いすることにした。山岡巨匠と共に向かったのは、長野県飯山市にある「なべくら高原 森の家」。ここは自然と触れ合うために作られた施設で、様々な体験学習などが行われている。
「今晩は鹿肉の入ったキノコ鍋かぁ」と巨匠は過大な期待を頂いているようだが、いくらエキスパートに付いてもらったところで、自然はそんなに甘くない。しかもマタギがいるわけじゃないんだからね。
ジムニーシエラTS4+スーパーチャージャーで、関越自動車道を北に向かう。すでに何度か乗っているこのジムニーだが、やはりスーパーチャージャーの効果は絶大だ。あのモッタリとしたJB43のエンジンとは思えない。80㎞/hから加速したい場合など、関越道の登り勾配でもグイグイと力強く登ってくれる。関越トンネルの向こうにある塩沢石打ICもあっと言う間だった。
東京から3時間半くらいで、なべくら高原に。ここはもう晩秋の色合いが濃い。他県から移住してきたという若いスタッフ・アサイさんの案内で、早速収穫できるというポイントに連れていってもらった。森の家からクルマで数分、収穫スポットはなんと舗装路沿いにあった。
「実はココにオニグルミが落ちてるんですよ」というアサイさんの示した先を見ると、何だか黄緑の果実のようなものと黒いものが側溝脇の土手に落ちている。黄緑のが果肉が付いた実で、黒いのは中に入っている種子だ。僕らはこの種子を割って柔らかい部分を食べているのである。
いわゆるクルミの殻のほうを見てみると、なにやら穴が空いていて、中身が空っぽだ。「先客にやられましたね〜」と、アサイさん。殻には中央に穴が空いたものと、真っ二つに割れているものがある。
アサイさんによると、穴が空いているものはアカネズミが、割れているものはニホンリスが食べた跡なんだそうだ。アカネズミが食べた殻は、まるでドリルで開けたようにきれいな穴が空いている。リスはナタで割ったかのように、きれいに割れているのが凄い。しかも中は皮ひとつ残されておらず、自然の凄さをまず感じることとなった。
僕らはというと、しばらく探しているときれいな状態のものがいくつかあったので、数個を持って帰ることにした。里山の住人たちのご飯を人間が大量に持っていくのは無粋だからね。
ちなみにオニグルミ、スキレットやフライパンなどで煎って食べると激うま。普通のクルミよりも油脂が強く、栄養価も高いらしい。食べ過ぎると、吹き出物ができるのでご注意。オニグルミの樹木は日本全土で見られて、主に山間部の川沿いに多く見られる。何度も言うようだけど、あのクルミの硬い殻がなっているわけではないので。
そういえばオニグルミの殻って、トーヨータイヤのスタッドレスタイヤの中に入っていたりする。動物の生命力も凄いけど、人間もなかなかやるもんだ。
2つめの収穫ポイントは、意外と近くにあった。オニグルミが落ちていた場所から数mほど林の中に入ると、そこには無数の緑色の実が落ちている。それは足の踏みどころもないくらいだ。「ヤマナシです」とアサイさん。
ヤマナシはニホンナシとも言われるバラ科の樹木で、僕らが食べているナシの先祖のようなものだ。中部から西に自生している天然樹だ。果実はナシのミニミニサイズで、よく見るといわゆる「梨地」になっているのがかわいい。
ほんのりと甘い香りがしており、何だか美味そうだ。「酸っぱいですか?」と尋ねると、意外と甘いらしい。「食べてみてよ」と山岡巨匠。大抵、僕に試させるのが巨匠の手口だ。僕が倒れたら、フィールダーの入稿よろしく。
ズボンで表面を擦って、おそるおそる実をかじってみると…。ん? 激アマではないが美味いぞ。味もまさしく梨だ。硬い梨を食べている感じである。「美味いですよ〜」というと、「騙してるんじゃないの〜」と巨匠。いや、マジ美味いって。
「けっこうイケますよ」とアサイさんが言うと、巨匠もようやく食べ始める。「美味いな」と意外にも気に入ったようだ。天然ものの果実というと渋いイメージがあるのは仕方がないが、疑いすぎ…。
栽培されている果樹もそうだが、こうした実は糖度が高くなると自然と地面に落ちてくる。美味くなれば動物たちが食べて、その後に種子をどこかに運ぶ。その種子から芽が生え、やがて立派な樹木になる。こうして植物は種の存続を図ってきたのだ。それを考えると、実によくできたメカニズムだと感心してしまう。
いくつか食べかけの実があったので猿かと思ったのだが、そうではないらしい。かと言って、歯形を見ると小動物でもなさそうだ。ふと横を見ると、巨匠が撮影もしないでまだヤマナシを食べている。よほど気に入ったようだ。きっと今晩あたり、お腹が痛くなるにちがいない。
オニグルミとヤマナシの収穫を楽しんだ後は、いよいよ秋の味覚の王様であるキノコ採りで森に入る。ここからは地元のキノコ採り名人のタダシさんに、ご教示をお願いした。タダシさんは非常にシャイな方で「顔出しNG」だそうだ。地元の金融機関に勤めていた方で、リタイヤして森のガイドをやっているのだとか。キノコ採り歴は40年というベテランだ。
森へ向かうのに、田んぼのあぜ道を歩いていく。その道すがら、タダシさんが「コレも食べられます」と教えてくれる。それがこれもあれもで、里山って実は食べられるものがいっぱいなんだな〜と再認識させられる。
例えばハスの実。中華料理で炒め物に入っていたり、粉にしてお菓子に入れたりと、お馴染みの食材だ。青いうちはナマで食べることができて、トウモロコシのような甘さがある。
写真のように見た目はグロだが、実は貴重な食料となる。ハスが植えられている公園などでは「勝手に実を採らないでください」なんて看板があるので、それだけ人気があるということだ。
「これはムカゴ」とタダシさんが、指さす。おお、おつまみでお馴染みのムカゴだ! ん、ムカゴって土の中にできるんじゃないんだ…。ムカゴはヤマノイモの葉や茎が変形したもので、実はツルの途中になっているものだったのだ。イモっぽいから、てっきり根にたくさんなっているものだと勘違いしていた。
ちなみにこのムカゴができているツルをつたっていき、その根元を掘るとヤマイモが出てくる。以前、ヤマイモ堀りに挑戦したのだが、これがとてつもなく深く掘らないと出てこない。田舎でもヤマイモは高い値段で売られているが、あの労力を考えると仕方がないなと思う。
田んぼの稲の葉を見ると、イナゴがいた。これも山里では貴重な動物性タンパク質だ。飯山あたりではそうでもないが、長野県の中部から南部にかけては食虫文化が定着している。イナゴやハチの子などを佃煮などにして食す。今でもその辺のスーパーに行くと普通に売っている。
タダシさんは歩いてる途中に「これタラノキ。タラの芽が採れる木です」とか、いろいろ説明してくれる。都会の人間はスーパーや飲食店でしか食材を見たことがないから、自生している姿を知らない。自然の中で生きるということは、イコール知識を持っているということなのだ。里山の人々や動物たちは、こういうことをベーシックで知っている。それを考えると、自分の“虚弱さ”が何とも情けなかった。
いくら森の中に様々な恵みがあるからと言って、ビギナーがすっと行けるほど自然は甘くない。実際取材中も、僕はすぐに方向感覚を失った。太陽光が入らない曇りの状態では、まるで東西南北が分からない。不慣れな山や森に入る場合には、まず準備が必要だ。
まず大切なのは、前述したように迷わないことだ。それにはコンパスと地図か、GPS。コンパスと地図だが、実は素人では到底扱えないシロモノだ。読図という技術がなければ、せいぜい方位を知ることができるくらいしか役に立たない。要は、地図と周囲の地形を見て、自分がどこにいるのかが分からないと役に立たないのだ。
樹木ばかりの森で、地形など読み解くことはほぼ不可能に近い。これではあっても道迷いから脱出することは難しい。その反面、GPSは地図の中に自分の位置が表示されるので、誰でもどこにいるかが分かる。最近のハンディGPSはロシアの衛星やみちびきの電波を受信するので、かなり深い谷間や山中でも位置を測定してくれる。
GPSの軌跡表示機能をONにしておけば、元来たルートを知ることができる。これに沿って帰れば、森から出られるということなのだ。実際、山菜採りに出かける人の多くが、GPSを携行しているらしい。
次に恐いのが、クマとの遭遇だ。北海道ならヒグマ、それ以外の地域ではツキノワグマ。秋は冬眠前で活発になるため、遭遇の危険度が高くなる。1週間前にも、南アルプス林道でコグマと遭遇したばかりだ。コグマがいるということは、必ず近くに母グマがいるということだ。
クマは本来、非常に警戒心が強く臆病な動物なのだが、人間が自然深くまで入るようになったことや、気候変動などの影響で餌がなくなり、どんどん里山の方まで下りてきている。大概は人間の気配を察知すると逃げていくのだが、出会い頭だと驚いて人を襲うことがある。
今年は特に主食となるブナの実が不作のため、活動時期が遅くなることが予想されるから特に注意が必要だ。不幸な出会い頭を防ぐには、こちらの存在をクマに知らせることが有効と言われている。
熊鈴やラジオなどが一般的だが、ホイッスルや爆竹を使う人もいる。クマは鼻が非常に敏感なため、オーデコロンなどの強い匂いで撃退できるという人もいる。ただし、最近は人の多い登山道に出没し、音を恐れないクマもいるというので、これには十分な注意が必要だ。もし出会ってしまった時は、視線を決して合わさず、ゆっくり後ずさりして距離を空けていこう。向こうも必死なので、驚かせると襲ってくることが多い。
森の恵みが多い場所には当然、クマだけでなくシカやイノシシだってやってくる。非力な人間にとってはどれも恐ろしい存在なので、侮ってはいけない。特に藪が深い場所は注意だ。
この他にも、森に入るには様々な対策が必要となる。まず長袖はマスト。藪に入ると、腕がボロボロになるからだ。また手袋もはめて、ウルシなどかぶれる植物を触っても大丈夫なようにしておきたい。万が一暗くなってしまっても行動できるように、ヘッドライトやフラッシュライトの携行も忘れないように。
ちなみに僕が山や森に入る時は、ツエルト(簡易テント)やファーストエイド、雨具(防寒着)、食料、水、5mほどのロープを必ず持っていく。「何もないよ」という人が多いのだが、何もない確率はないからだ。恐い話をしよう。実は群馬県方面では、山菜やキノコを採りに入った人が、大抵毎週一人は行方不明になっているそうだ。大きなニュースにもならないらしいが、レスキュー隊員が言っていたのだから間違いないと思う。
人里に近い森だからと言って、くれぐれも油断しないでいただきたい。
キノコ採りに戻ろう。最初は森の小道を歩いて探した。よく人の手が入った森で、巨匠と共に「気持ちいいね〜」などと散歩気分。誤解している人が多いのだが、森の恵みが多い森というのは、実は人の手できちんと整備された森なのだ。
間伐や枝打ちをしない森というのは、地面にまで陽が当たることがなく、風も通らない。すろと土が不健康になり、悪いバクテリアなどが増えてしまう。適度な樹木も密度にしてやることで森は元気になり、そこに共生する他の自然も元気になるという仕組みなのだ。
森の外で田畑を作る人は、里山の整備に余念が無い。森が不健康だと水が悪くなり、稲や作物に森から悪い病気が来てしまうからだ。自然のままというイメージの里山だが、大変な労力で保たれている。だから、勝手に入ってキノコを採ったり、実を拾うのはNGということだ。
ところで、タダシさんによると長野県内にあるキノコの種類は、何と2000種類。それを全部知っているのかと思ったら、「いや、図鑑見ます」ということだった。さすがに名人でも2000は覚えられないよな。「毒キノコにあたったことは?」と尋ねたら「ちょっと」ということだった。「ちょっと」というのはどれくらいのあたり方なんだろう? タダシさんは、かなりお茶目な人だった。
「これね、昔は食べてたの。でも、今は毒キノコ指定。採ってく?」いや、いらんです。「大丈夫、内蔵疾患とかなければ。食べてみなよ」いや、僕も巨匠も胃が弱いからいいですって。盛んに勧めるのだが、自分は食べないらしい。「なんだー、残念だなー」やっぱりお茶目な人だ。
1時間ほど森を歩き回ったいたが、ポイントに目当てのキノコがないため、タダシさんもつい弱音を吐く。「今年はダメだな」昨シーズンは雪が少なく、今年は長雨という天候がたたって、キノコが近年稀に見る大不作なのだという。「こんなに不作なのも珍しいね」いつもはこの辺で大量に採れるブナの実も、殻ばかりでまるで実が入っていないという。
ジメジメしていたほうがキノコは喜ぶのかと思ったのだが、きちんと四季がないと、キノコも生えてこないのだという。やはりキノコだって、気持ちがいい方がいいというのだ。「キノコ探しは、キノコの気持ちにならないと」とタダシさん。キノコが生えたいと思う環境に生えるとは、まさに名言。こういう自然のメカニズムを知っているところが、名人たる由縁なのだろう。
それでも名人は諦めない。ジムニーに真っ青の走破性で、藪をゴソゴソとかき分けていく。真剣なのか、僕と巨匠は置いてきぼりだ。うわ、こんな所からでは帰れないよ〜。半泣きになっていると森の奥から「あったよ〜」と名人の嬉しい声。
行ってみると、ナラの倒木にキノコがずらりと生えている。「ナラタケという種類です」とちょっと安心した様子の名人。「ダシが出てなかなか美味しいよ」おお、キノコ汁ゲットだ。こうなると違うキノコも欲しくなる。
だが、それから小一時間森を彷徨ったが、見つかるのは毒キノコばかり。ナラタケが少し見つかったくらいで、大物は見つからなかった。「一面キノコが生えている様子を見せたかったよ」と名人も残念そう。でも、これが自然の恵みということなのだ。
キノコの収穫量は少なかったが、二人分のキノコ汁には十分な量だった。またオニグルミやヤマナシ、ムカゴなど食べられるものがそれなりに収穫できた。ちなみに栗は森の住人に先を越されて全滅…。
採ったものは美味しくいただいたが、最も収穫だったのは、自然のメカニズムの中でいろいろな動植物が生きているということを改めて知れたことだ。何せお金を出せば何でも買える都会生活ゆえに、そういうことを忘れてしまっている。
木の果実が落ちて、それを食べた動物の糞の中に種子が入っていて、また違う場所で新しい植物が生える。キノコが生えて、それを食べに来る動物がいて、糞をして、それにまた新しいキノコが生える。自然はすべて循環型社会なのだ。そこに組み込まれていないのは、実は人間というピースだけなのである。その人間だって、里山では努力して自然の中に溶け込もうとしている。
こういう基本を忘れて生活していることは、もはや生きることを放棄しているに等しいのではないだろうか。今度のオフにジムニーに乗って、ぜひ里山に出かけてみてほしい。そして、どんなものでもいいから食べられるものを探してみてほしい。自然は偉大で、食べて生きるということがどんなに喜ばしいことなのか、その片鱗を感じることができると思う。人間は人工的に造ったものだけ食べていきてはいけないのだ。
<文/山崎友貴、写真/山岡和正>